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2010年3月26日金曜日

草津線の駅名



前回のブログでのお約束どおり、相変わらずのヒマにあかせ草津線の駅名地名について調べてみた。前回、前々回のブログに書いたように、このひと月ほどのあいだに、二度も草津線に乗る機会があった。よく思い起こしてみると、じつに二十年ぶりくらいの草津線だ。
久しぶりの草津線。手原から柘植までの車窓の風景が、何が特に見えるというわけではないのだが、とてもほっこりさせられる。魅力的な線だと思う。

草津線は東は鈴鹿に源流を持つ杣川(そまがわ)に添って走り、杣川が野洲川に合流してからは途中まで野洲川に添って、甲賀丘陵を横断している。甲賀の東、伊賀との境まで丘陵地で、しばしば境界争いがあったという。なるほど、油日から柘植のあいだで、どこが県境になるのかわかりにくい。


戦前から1965年まで続いた姫路駅 - 鳥羽駅間の快速列車(俗に参宮快速などと呼ばれ、戦前は食堂車も連結されていた)と、その格上げ列車の「志摩」のほか、京都駅と名古屋駅を草津線経由で結ぶ「平安」、京都駅から南紀へ向かう「くまの」などの気動車での急行列車があった(これら3種の急行の草津線内停車駅は、1978年時点で草津・貴生川・柘植のみ)が、日本国有鉄道(国鉄)末期にいずれも廃止になり、優等列車は姿を消した。(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/草津線

以下駅ごとの駅名の由来。主に角川日本地名代辞典26、平凡社日本歴史地名大系26、白水社 日本の神々5、(京都府立・市立両図書館より)、インターネット百科事典ウィキペディアを参考にした。

柘植(つげ
前回のブログをご覧ください。

油日(あぶらひ)
鈴鹿の南端の山にに大明神が降臨したとき、油に火がついたように大光明があがったという伝説にちなみ、油日岳といわれるようになった。(角川地名大事典)
この油日岳をご神体にした、重要文化財の油日神社がこの地にある。

甲賀 (こうか)
古くは鹿深(かふか)ともいった(日本書紀)鈴鹿の山は深いという由来説と、鈴鹿に向かう(かむか)から来たものだという説がある。奈良期には甲賀杣が置かれ、平安期には甲賀駅がおかれて、東海道と東山道の分岐点だった。甲賀という呼び名は、旧甲賀郡(いまは甲賀市と湖南市)全体を呼んでいるのだが、甲賀町という行政区域の中心がこの地にあった。

寺庄(てらしょう) 
飯道寺(はんどうじ・信楽)の所領だったことにちなむ(角川地名大事典)
飯道寺については一番最後をご覧ください

甲南(こうなん)
この駅は少なくとも1970年ごろまでは「深川」(ふかわ)だったと記憶している。甲南という名にしたのは行政区と駅名のズレで混乱を防ぐためかも。この地は深川宿彌が開いたという説がある。杣川の支流がここで合流する交通の要所になっていて、一時期物資の集積地で深川市場とよばれる地域があった。

貴生川(きぶかわ)
内貴、北内貴、虫生野(むしょうの)、宇川の四村が合併したとき、この四村の名前から一字づつとって貴生川村となる。その後貴生川町となり、1955年水口町と合併して、水口町の一部となる。平成の大合併で現在は甲賀市。

三雲(みくも)
この地に三雲山三雲寺が存在したという記述が正倉院文書にある(角川地名大事典)野洲川に流れ込む支流が集まってきて、水に臨んだ蜘蛛の手状に見えるのが由来という説もある(京都滋賀古代地名を歩く・吉田金彦)

甲西(こうせい)
草津線で一番新しい駅。行瀬区域「甲西町」の名(現在は湖南市)。甲賀郡の西部にあることによる。

石部(いしべ)
古くはいそべともいった。石灰新荘 石灰荘ともいった(角川地名大事典)石灰に産地になっていたのかな?東海道の宿場町。

手原(てはら)
栗東町(今の栗東市)と合併する前には、この地には手原村があった。手孕とも書いた。 手で女を孕ませた説話による。

全国各地に手孕説話(てばらみせつわ)というものがある。
女性が、その身体に男性の手が接触したのが原因で孕み、片手を産んだという説話。
この説話を地名の起源とする土地に、滋賀県旧手孕村があり、『広益俗説弁 遺篇』その他に記載がある。兵庫県旧手孕村にも村名の起源として同じ説があり、下総結城の手持観音の縁起もおなじ筋を説く。
この起源は中国で、李卓吾の『続開巻一笑』にあるから出たという説もある。
しかしいっぽうで肉体の一部を妊娠することから村の名となる話は別にある。たとえば『新編武蔵風土記稿』によれば、武蔵国膝子村は、村の農夫の妻が膝のようなものを産んだことから村名がおこったという。
つまり、神の来訪がその土地に子孫をのこすという考えが根拠となり、のちに来訪の象徴を手または足の痕として、これを神の接触の記念とする民俗があった。それゆえ、たとえ中国伝来の説話が起源であるとしても、他方の民俗がその成長、敷衍を助けたとも考えられるという。村名起源は、説話の連想からこじつけたものであろうという。
(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/手孕説話 

飯道山 (664.2)古くは 餉令山(かれいさん)ともいった。
飯道寺として奈良時代建立。 紫香楽宮の鬼門守護として建立された。ちょうど平安京の比叡山の役割を果たしている。平安時代には三十六坊あり、全国屈指の修験道寺院だった。
あわせて飯道神社がある。古くはいいみち神社とも読まれた。この一帯は古くは信楽杣があって、 とくに奈良時代は多くの資材が伐り出され、奈良に供給された。
飯道寺古縁起には次のような話がある。
    昔、摩訶陀国の大王の王子宇賀太子は弁天女と夫婦になり、仲むつましく暮らしていたが、弁天女は貧民を救うため、仏約によってわが国の餉令山に鎮座した。宇賀太子は弁天女を慕って村々を尋ねあるいたすえ、近江国甲賀郡油日に影向(ようごう)し、寺庄の常徳鍛冶に一宿を請い、弁天女の行方を尋ねると、常徳は弁天女が餉令山に遷座ましますことを伝えた。喜んだ宇賀太子は常徳に、食べても尽きることのない米や、蒔かずとも毎年生える大根の種を与え、立ち去るにあたり、「餉令山にいる私を尋ねたいときには、石楠花の葉に盛った飯を道標として尋ねてきなさいと」と言って姿を消した。常徳がその道標をもとに餉令山に登ってみると権現(飯道権現)に出会うことができた。そこで常徳は祠を建てて権現を祀った。
この由来譚は仏教説話を基本にしているが、宇賀太子は穀物神宇迦之御魂神(食稲魂神)と同一神格であり、弁天女は水神・龍神として広く民間信仰を集めてきた弁財天ののこと。この二神を集合させて「飯道権現」としたのは、農耕神が飯道山に鎮座するという山岳信仰が存在していたことを物語る。いまも「飯道山の水は米に良い」「飯道山に雲がかかると雨になる」「飯道山の雨と親類のぼた餅は呼ばんでも来る」という俗信がある。古くは飯道神に石楠花の葉に飯を盛り備えるという儀式があった。(日本の神々5 谷川健一編 白水社)