池田清彦 『38億年 生物進化の旅』 (新潮文庫)/新潮社
その日は早い時刻から床に入っていた。だから、そんなに遅い時刻ではなかったように思う。ど~ん、ど~んと部屋のドアをノックというより叩く音がして目が覚めた。外はいつしか雨がらしく、窓の外から、少し大粒の雨音が聞こえていた。
「ホーイ」と大声で返事をし、眠気と訝しい気持ちとが混ざった状態で、ゆっくりとドアを開けた。
「左近さんこんばんは。夜分恐れ入ります。実はお願いがあるのですが。」
ドアの向こうに雨を背に立っていたのは、数年前から我が家のとなりの草むらに住んでいる、とのさまがえるのバレンティンだった。
彼の何代か前あたりから、二足歩行をする仲間が増え始め、バレンティンの場合も生まれて間もなく、苦もなしに二足歩行を身につけたのだった。
「どうしたの?」
バレンティンはドアを叩いた音とは対照的な静かな物言いで
「実は自転車をお借りしたいのですが。」
「どうぞどうぞ、ぼくはちっともかまわない。が、いまごろから自転車でお出かけかね?」
「実は今夜、円山公園で蛙の集会があるのです。」
「へえ、こんな雨の夜にかい?」
「われわれには晴れも雨もあまり関係ありません。むしろ雨の日のほうが快適です。」
「今夜は、蛙の基本的権利を人間に認めさせようというデモと集会があるのですが、岩倉川から高野川、鴨川と泳いで行ったのでは遠すぎて間に合わないのです。それに鴨川の四条通りは交通量が多くて・・・
われわれ蛙は公共の交通機関にも乗れません。全裸ではだめだというのです。おまけにわれわれには運転免許証をとる資格基準もつくられていないので、車の運転もできません。せっかく二足歩行も獲得したことだし、そのあたりの不公平を改善してもらおうと、デモと集会を実施することになったのです。
できれば上下水道の利用も可能にしたいもんです。そうすれば、もっと便利な街中に住めるようになります。水はわれわれにとって、人間以上に死活問題です。何しろ体が乾くと具合が悪いのです。」
「ああ。そのことなら、新聞なんかにも書かれていて、知っていたよ。それが今夜なんだね。」
「そうなんです。それで自転車をお借りしたいのです。やっと、練習の甲斐あって、なんとか自転車には乗れるようになりましたので。」
「そうですか。気を付けて行ってらっしゃい。」
「では、ちょっとお借りします。おやすみなさい。」
「ああ、おやすみなさい。」
暗闇の雨の中を、さらに闇の深い影を残してバレンティンは自転車で去って行った。
彼がとなりの空き地から街中に引っ越してしまったら、寂しくなるなぁ。
≪一つの種は概ね100万年~200万年ほどで滅びている。種の交代が煩雑に起きているので、ジュラ紀と白亜紀の恐竜はまったく異なる種の恐竜である。これは恐竜に限らないが、なぜそのように種の絶滅と新しい種の発生がくり返し起こるのかも謎である。≫ 同上書