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2014年8月25日月曜日

萩と月 2014 


一家に遊女も寝たり萩と月  芭蕉


写真は京都左京区に二か所ある「萩の寺」の萩、昨年撮ったものです。


それにしても上の句、芭蕉の句にしてはずいぶん艶っぽいですね。『奥の細道』の「市振」での一句。教科書などで「細道」に出会った人も、原文に挑戦したことのある人も、もうこの紀行も終わりの方なので、ここまでたどり着けなかった方も多いのではないでしょうかね。それでこの句には出会わなかった。そんな方には、千載一遇の機会ですよ。
「市振」は今の新潟県糸魚川市の西部、もう富山県境が目の前というところです。当時から港町だったということで、華やいだ空気が漂っていたのでしょうか。芭蕉翁もちょっと華やいだ?

芭蕉は「今日は親知らず、子知らず、犬戻り・・・」という出で「市振」を書き出しています。ここは原文を読んでいただくのがいいのですが、今回手っ取り早く、現代語訳でいきます。先年若くして亡くなった立松和平さんの『スラスラ読める「奥の細道」』(講談社)からそのままお借りします。細かいところが違っていたらごめんなさい、わたしのタイプミスです。

迎穪寺
≪ 市振  親知らず、子知らず、犬戻り、駒返などという北國一の難所を越えて、疲れてしまった。枕を引き寄せて寝たところに、一間隔てた西の方に、若い女二人の声が聞こえた。年老いた男の声もまじって物語をするのを聞けば、越後の新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をするということで、この関まで男が送ってきて、明日は男に託(ことづ)けて故郷に返す手紙をしたためて、細かな言伝えなどしてやっている様子だ。白波が寄せる渚に身をまかす漁師のように人生の波にさすらい、この世の底まであさましく身を落とし、夜毎に変わる定めなき契り、このような日を送る前世の業因はなんと悪いことかと、話を聞きながらうとうと眠ってしまった。
朝旅立とうとするとき、私たち向かって「行方もわからない旅路の心細さ、あまりにおぼつかなくて悲しゅうございますから、見え隠れしながら御跡をついていきとうございます。僧の衣をお召しのお身の上の御情に大慈の恵みお分かちくだされ、仏縁をもたせていただきとう存じます」と泪を落とす。「不憫なことではあるが、私たちはあっちこっちととどまるところが多い。人が大勢いく方向にまかせていくとよい。伊勢大神宮のご加護が必ずあり、無事につくことができるでしょう。」と言い捨てて出発してしまったのだが、哀れさがしばらく胸の中にやまなかった。≫

という散文(原文は江戸期の文語体ですが)につづいて、上の「一家・・・」の句が記されている。さらに句につづいて「曾良に語れば書きとどめ侍る」とくるわけです。ところが同行の弟子曾良に書き留めておいてくれよと伝えたのですが、曾良の残した『俳諧書留』の中に、このとき書き留めがない、そういう気配もないそうです。

それでこの市振の一件は芭蕉の創作ではないかと云われている。まあ。お伊勢さんまでつれて行ってくれ、なんてせがまれる場面はなかったかも知れない。けれども宿の部屋の壁の向こうから、艶めかしい女性の声が漏れ聞こえてくるようなことあったでしょうよ。まあ全くの創作と云ってしまうのはどうかとは思うのですが。
 
常林寺
作家で芭蕉研究家の嵐山光三郎もこれは芭蕉翁の創作だといいつつ、『奥の細道』は歌仙を巻くように一句一句懐におさめていく紀行であって、さらに「歌仙の芯は、月、花、恋、である。月を眺め胸がざわめき、花を見て心がはなやぎ、恋に身をこがしてさすらうことが風狂の旅である。歌仙を巻くのは座敷の席であり、実際に旅をするわけではなく、密室で幻視する月、花、恋である。それを『細道』に巧みにはめ込むところに芭蕉の技があった」(『芭蕉紀行』新潮文庫)。芭蕉の技かぁ!卓見ですねぇ。

どちらにせよ、この一句、そんな背景をなしにこの発句だけ取り出して読んでも、存在感のある名句で、さすが芭蕉大宗匠とうならせるものがあります。うんうん!

ところで、今年仲秋の満月は九月八日です。仲秋の迷月は「初恋を偲ぶ夜」です。
いやっ、わたしが言っているのではなく、井伏鱒二がいっているのですよ。

けふは仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
     『荻久保風土記』より          

     Sakon Kisse 記 (このブログは池上助産院のホームページ掲載したものと同じです。)