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2010年3月31日水曜日

西行忌

願わくは花の下にて春死なむ 
そのきさらぎの 望月のころ

いい歌ですね。

きょうは西行忌。 満月と釈迦の入滅には一日遅れはしたが、こんなにうまく、自分の歌の通りに死ねるものかと思うが、これも人徳かな。

その西行、もとは鳥羽院の北面の武士、佐藤義清(のりきよ)。23歳のとき妻子を捨て出家。末世に対する無常観からとか待賢門院との失恋が原因だとかいわれている。

北面の武士のころは清盛と同僚であったという憶測もある。頼朝には出会った記録があるが、義経とはない。義経を嫌っていたのではないかという御仁もおられる。どちらにせよ大変な時代を生き抜いたといえる。

歌人として後世に残したものは多く。江戸元禄時代芭蕉も影響を受けているということだが、ここらは専門家、批評家のお話を読むなり、聞くなりしてください。

洛西の花の寺には「西行桜」というものがあると聞くが、まだ見たことはない。能にも「西行桜」なる演目がある。花の歌の多い人である。

(写真は京都北白川にある古い木造の「銀月アパート」の桜です。

2010年3月26日金曜日

草津線の駅名



前回のブログでのお約束どおり、相変わらずのヒマにあかせ草津線の駅名地名について調べてみた。前回、前々回のブログに書いたように、このひと月ほどのあいだに、二度も草津線に乗る機会があった。よく思い起こしてみると、じつに二十年ぶりくらいの草津線だ。
久しぶりの草津線。手原から柘植までの車窓の風景が、何が特に見えるというわけではないのだが、とてもほっこりさせられる。魅力的な線だと思う。

草津線は東は鈴鹿に源流を持つ杣川(そまがわ)に添って走り、杣川が野洲川に合流してからは途中まで野洲川に添って、甲賀丘陵を横断している。甲賀の東、伊賀との境まで丘陵地で、しばしば境界争いがあったという。なるほど、油日から柘植のあいだで、どこが県境になるのかわかりにくい。


戦前から1965年まで続いた姫路駅 - 鳥羽駅間の快速列車(俗に参宮快速などと呼ばれ、戦前は食堂車も連結されていた)と、その格上げ列車の「志摩」のほか、京都駅と名古屋駅を草津線経由で結ぶ「平安」、京都駅から南紀へ向かう「くまの」などの気動車での急行列車があった(これら3種の急行の草津線内停車駅は、1978年時点で草津・貴生川・柘植のみ)が、日本国有鉄道(国鉄)末期にいずれも廃止になり、優等列車は姿を消した。(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/草津線

以下駅ごとの駅名の由来。主に角川日本地名代辞典26、平凡社日本歴史地名大系26、白水社 日本の神々5、(京都府立・市立両図書館より)、インターネット百科事典ウィキペディアを参考にした。

柘植(つげ
前回のブログをご覧ください。

油日(あぶらひ)
鈴鹿の南端の山にに大明神が降臨したとき、油に火がついたように大光明があがったという伝説にちなみ、油日岳といわれるようになった。(角川地名大事典)
この油日岳をご神体にした、重要文化財の油日神社がこの地にある。

甲賀 (こうか)
古くは鹿深(かふか)ともいった(日本書紀)鈴鹿の山は深いという由来説と、鈴鹿に向かう(かむか)から来たものだという説がある。奈良期には甲賀杣が置かれ、平安期には甲賀駅がおかれて、東海道と東山道の分岐点だった。甲賀という呼び名は、旧甲賀郡(いまは甲賀市と湖南市)全体を呼んでいるのだが、甲賀町という行政区域の中心がこの地にあった。

寺庄(てらしょう) 
飯道寺(はんどうじ・信楽)の所領だったことにちなむ(角川地名大事典)
飯道寺については一番最後をご覧ください

甲南(こうなん)
この駅は少なくとも1970年ごろまでは「深川」(ふかわ)だったと記憶している。甲南という名にしたのは行政区と駅名のズレで混乱を防ぐためかも。この地は深川宿彌が開いたという説がある。杣川の支流がここで合流する交通の要所になっていて、一時期物資の集積地で深川市場とよばれる地域があった。

貴生川(きぶかわ)
内貴、北内貴、虫生野(むしょうの)、宇川の四村が合併したとき、この四村の名前から一字づつとって貴生川村となる。その後貴生川町となり、1955年水口町と合併して、水口町の一部となる。平成の大合併で現在は甲賀市。

三雲(みくも)
この地に三雲山三雲寺が存在したという記述が正倉院文書にある(角川地名大事典)野洲川に流れ込む支流が集まってきて、水に臨んだ蜘蛛の手状に見えるのが由来という説もある(京都滋賀古代地名を歩く・吉田金彦)

甲西(こうせい)
草津線で一番新しい駅。行瀬区域「甲西町」の名(現在は湖南市)。甲賀郡の西部にあることによる。

石部(いしべ)
古くはいそべともいった。石灰新荘 石灰荘ともいった(角川地名大事典)石灰に産地になっていたのかな?東海道の宿場町。

手原(てはら)
栗東町(今の栗東市)と合併する前には、この地には手原村があった。手孕とも書いた。 手で女を孕ませた説話による。

全国各地に手孕説話(てばらみせつわ)というものがある。
女性が、その身体に男性の手が接触したのが原因で孕み、片手を産んだという説話。
この説話を地名の起源とする土地に、滋賀県旧手孕村があり、『広益俗説弁 遺篇』その他に記載がある。兵庫県旧手孕村にも村名の起源として同じ説があり、下総結城の手持観音の縁起もおなじ筋を説く。
この起源は中国で、李卓吾の『続開巻一笑』にあるから出たという説もある。
しかしいっぽうで肉体の一部を妊娠することから村の名となる話は別にある。たとえば『新編武蔵風土記稿』によれば、武蔵国膝子村は、村の農夫の妻が膝のようなものを産んだことから村名がおこったという。
つまり、神の来訪がその土地に子孫をのこすという考えが根拠となり、のちに来訪の象徴を手または足の痕として、これを神の接触の記念とする民俗があった。それゆえ、たとえ中国伝来の説話が起源であるとしても、他方の民俗がその成長、敷衍を助けたとも考えられるという。村名起源は、説話の連想からこじつけたものであろうという。
(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/手孕説話 

飯道山 (664.2)古くは 餉令山(かれいさん)ともいった。
飯道寺として奈良時代建立。 紫香楽宮の鬼門守護として建立された。ちょうど平安京の比叡山の役割を果たしている。平安時代には三十六坊あり、全国屈指の修験道寺院だった。
あわせて飯道神社がある。古くはいいみち神社とも読まれた。この一帯は古くは信楽杣があって、 とくに奈良時代は多くの資材が伐り出され、奈良に供給された。
飯道寺古縁起には次のような話がある。
    昔、摩訶陀国の大王の王子宇賀太子は弁天女と夫婦になり、仲むつましく暮らしていたが、弁天女は貧民を救うため、仏約によってわが国の餉令山に鎮座した。宇賀太子は弁天女を慕って村々を尋ねあるいたすえ、近江国甲賀郡油日に影向(ようごう)し、寺庄の常徳鍛冶に一宿を請い、弁天女の行方を尋ねると、常徳は弁天女が餉令山に遷座ましますことを伝えた。喜んだ宇賀太子は常徳に、食べても尽きることのない米や、蒔かずとも毎年生える大根の種を与え、立ち去るにあたり、「餉令山にいる私を尋ねたいときには、石楠花の葉に盛った飯を道標として尋ねてきなさいと」と言って姿を消した。常徳がその道標をもとに餉令山に登ってみると権現(飯道権現)に出会うことができた。そこで常徳は祠を建てて権現を祀った。
この由来譚は仏教説話を基本にしているが、宇賀太子は穀物神宇迦之御魂神(食稲魂神)と同一神格であり、弁天女は水神・龍神として広く民間信仰を集めてきた弁財天ののこと。この二神を集合させて「飯道権現」としたのは、農耕神が飯道山に鎮座するという山岳信仰が存在していたことを物語る。いまも「飯道山の水は米に良い」「飯道山に雲がかかると雨になる」「飯道山の雨と親類のぼた餅は呼ばんでも来る」という俗信がある。古くは飯道神に石楠花の葉に飯を盛り備えるという儀式があった。(日本の神々5 谷川健一編 白水社)


2010年3月22日月曜日

ちょっとお出かけ、小旅行気分・関西本線の駅名



この連休、仕事もなく電話もかからないので、連休初日に散歩がてら出掛けることにした。
元養護学校の教員をしておられたH(な)先生に、先日宇治の恵心院のことを話題にしたら、いちどぜひ彼も行ってみたいから、誘ってくれということになった。「鉄は熱いうちに打て」。
宇治に行くのに、すっと、まともに行っても面白くないので、JR、草津線、関西本線、奈良線をぐるっと回って行きまひょか。
答えはOK。面白そうですね。

朝10時前に京都駅を出発、まずは草津。草津線に乗り換え。草津・栗東の市街地を抜けると、田園風景が拡がる。ほっとしますね。同感。暑いくらいの陽気だったが、うっすら黄砂が舞う春霞。

H(な)元先生はスモーカーなので、草津線や関西本線のホームに喫煙所があるのが気になるらしい。「JR西日本は全面禁煙とちがうんですか?」といわれても、ぼくにはなんで未だにホームに喫煙コーナーがあるのかわからない。

朝ジャスト京都発の快速に乗ると、実は草津線も関西本線も1分刻みの乗換えなので、煙草なんかすってる暇はない。


草津線終点の柘植でかわいいディーゼルにのりかえ、伊賀盆地の田園風景をみて、伊賀上野を過ぎると、こんどは木津川上流の渓谷風景。加茂で電車に乗り換え。
じつは加茂駅のホームの端にも灰皿があって、やっと一服。木津でまた奈良線に乗り換えて、宇治へ。

運賃は京都から宇治¥230。違法ではないのだけれど、途中で改札は出られません。出るとその駅までの運賃が要る。3時間かかりました。

宇治川中ノ島公園ででスーパーの弁当をひろげ昼食。暑いしビールを飲みたいなあと、互いに言いつつ、これから歩かんといかんので、我慢。

まず宇治川右岸の恵心院。河津桜は、もう葉が出てきてそろそろ花が終りかけ。三春瀧桜がちらほら咲き。日向水木の黄色が鮮やか。ラッパ水仙、ボケ、連翹がところ狭しと咲き誇っていた。

世界文化遺産、宇治上神社に参拝。橋寺方生院で桃の花と芭蕉の句碑を見て、黄檗まで徒歩。
宇治山の手はなかなか歩き甲斐があります。誘ってもらったらいつでもお付き合いします。

京阪で四条河原町。裏寺の居酒屋で打ち上げといった一日でした。暑い日でビールがうまかった。

いつもながら長いブログになりました。じつはこれからが本題というか、エネルギーの入ったところですが、関西本線ってちょっと変わった駅名があるので、いろいろがんばって調べました。草津線も調べているのですが、それは次回に譲って、今回はこの「小旅行」乗った駅名だけということで・・・

興味のない方はここまででよろしいですよ。長いので。

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まず草津線から関西本線の乗り継ぎ駅

柘植(つげ)
柘植の地名については、かつてこの地に柘植の木が生い茂っていたことによるとされている。
古代は積殖・都美恵・柘殖と書きつみえと読んだ。平安中期には都介と書いてつけと読んでいた。
(角川地名大事典)
起伏の激しい土地であることから「尽き(継ぎ)」が転訛したと考えるのが妥当と思われます。
(JR西日本)これ勉強不足(ぼくの意見)

柘植の地名は古代には、つむけと呼んでいたらしい。つむけは、エゾ語のツムケ(東の方の)に由来し、東の方の意味の地名であると思われる。和名杪に記載されている古名の積殖の地名だが、エゾ語のツム イ ペツ(東 いる、 ある 江)に由来し、東にある江の意味の地名であると思われる。
この柘植の地には、次ぎのエゾ語系の地名がある。小登は、エゾ語のポン ヌプリ(小さい 山)に由来し、小さい山の意味の地名であると思われる。平尾崩は、ピラ オウシ(崖 ふもと)に由来し、崖のふもと(すそ)の崩れの意味の地名であると思われる。荒神平や大平の平は、ピラ(崖)に由来し、崖の地名と思われる。加太峠の加太は、鹿伏兎とも書いた。カ フトーネ(上 狭い)に由来し、上の狭いの意味の峠名であると思われる。
(インターネット・伊賀地方のエゾ語系地名 元高校教諭 澤田謙三 

新堂(しんどう)
東大寺の末寺がこの地に建てられたことに由来するといわれています。
(JR西日本)
地域内の首谷(こべだん)と柿谷(かきだん)にあった廃寺をまとめて新しい寺を建立したことに始まる。
(角川地名大事典)

佐那具(さなぐ)
朝日郎の矢が官軍の甲を貫き通した物語は周辺に鉄製武器製造の技術集団の存在をうかがわせ、天目一箇神に「鉄鐸を作らしむ」とあり、鐸を「作那伎」(さなぎ)読むが(古語拾遺)、南隣の千歳むらからは銅鐸が出土しており、佐那具の村名はこの「鐸」に関係する名称とも考えられる。
近世には佐那具宿がもうけられた。(日本歴史地名大系24三重県の地名より 平凡社)
また古代には、百済から渡来した佐奈伎氏が住んでいた。(角川地名大事典)

伊賀上野 
伊勢にも上野という藩があり区別するために伊賀上野となった。
(角川地名大事典)

島ヶ原(しまがはら)
地名の由来については、次の説がある。
(一)この地は山に囲まれているので、あたかも島のように見えることによる。
(二)大昔は、石をシマと言っていた。その頃、この地は石の多い原野であったことによる(地元の説)
  この地元の説を補うと、エゾ語で石をスマとかシュマと言う。したがって、
島ヶ原の地名はスマ パラ(石 広い)に由来し、石の広い意味のエゾ語系の地名と言えるだろう。
(インターネット・伊賀地方のエゾ語系地名 元高校教諭 澤田謙三 

月ヶ瀬口(つきがせぐち)
梅で有名な月ヶ瀬の谷に行く入り口。古くは月ノ瀬といった。
「この地より東下の梅渓と五月川のせせらぎに映る月影の美はまさに月と瀬の風情

大河原(おおがわら)
上野盆地を東と南から名張川と伊賀川がこの地の夢絃峡で合流して木津川になる。(角川地名大事典)

夢絃峡は、木津川と名張川の合流地点の峡谷で、深い緑の中に静かに横たわる深淵です。ここには、平安時代の大和国司絃之丞と名張郡司の娘夢姫の悲恋物語が伝えられ、夢絃峡の名も二人の名にちなんで付けられたといわれています。(京都府ホームページ)

笠置(かさぎ)
古くは鹿鷺と書いた。東大寺所領。
笠置寺縁起には大津皇子が狩猟のときこの地で事故にあい、山神の加護によって救助されたので、笠を置いて帰ったという。

加茂(かも)
賀茂氏が居住したことによる。興福寺・東大寺所領で賀茂荘。

というコースですが、関西本線・伊勢路には変わった駅名があります。
以下付録です。

一身田村(いしんでん)
天皇から親王・内親王その他勲功のある者に、その身一代に限って与えられる賜田に基づく。伊勢神宮の斎王に対し一代を限って与えられた賜田が語源になっているものと思われる。歴代斎王に逐次与えられたので、地名として定着した。
(日本歴史地名大系24三重県の地名より 平凡社)

加太(かぶと)
古くは賀太・鹿伏兎ともいった。地名からくる加太氏という氏族があった。加太越えはもともと東海道の本道筋であったが、鈴鹿峠越えが開かれて、関宿からわかれて上野城下方面に通じる道筋にかわる。加太宿がおかれた。(日本歴史地名大系24三重県の地名より 平凡社)

加太もしくは鹿伏兎の意味は不明。ただ頭を意味するカブトに似た点がある。
壬申の乱のおり大海人皇子が通過した。
(角川地名大事典)

これはJRではなくて近鉄から伊賀上野への乗換駅の名前です
伊賀神戸(いがかんべ)
神戸は、木津川上流の左岸で、出作川との合流地付近(上神戸)及び比自岐川との合流地付近(下神戸)に位置する。倭媛命が4年間ほど、天照大神を奉祭して滞在したと伝えられている穴太宮(神戸神社)がある。伊賀国造の伊賀津彦が、伊勢神宮に水田を寄進したと伝えられている。神戸の地名は、この地に伊勢神宮の神田があったとこによるとされている。
 三重県には、鈴鹿市、亀山市、津市、松阪市などにも神戸の地名があり、伊勢神宮の水田があった。地内に、突保池、浅妻の地名がある。 突保池はエゾ語のト ポン(沼 小さい)に由来し、沼の小さいの意味の池がある地名で。浅妻はエゾ語のア サットマ(アは接続語、乾く 沼地)に由来し、乾く沼地の意味であると思われる。
(インターネット・伊賀地方のエゾ語系地名 元高校教諭 澤田謙三 









2010年3月5日金曜日

クラス会・信楽・DNA

3月9日に少し書き直しました。


先月の最後の週末、出身中学校の三年生クラス会に出かけた。ぼくの出身は滋賀の信楽で、小学、中学、高校のはじめまで、信楽で暮らした。いまも母親の実家があったり、妹が嫁いでもいるのでまったく無縁というわけではないのだけれど、数年前に車に乗るのを止めてからすっかりご無沙汰になってしまった。


信楽に玉桂寺という弘法大師と縁のあるお寺がある。そのお寺で湧き出る水は、柔らかでほんのり甘い名水なのだけれど、車に乗っていたころには月に一度くらいはその名水を汲みがてら信楽を訪れていた。車に乗るのをやめてしまったの、すっかりご無沙汰になってしまった。いまの日本は、都市部から少し離れただけで、公共交通手段が不便で料金も高く(特にJRは私鉄が競合しない地域に入ると急に運賃が跳ね上がる)、車がないと足が確保しにくくなる。ご他聞に漏れず信楽もだ。足が遠のいてしまったのは、それがやはり大きな理由であるように思う。


京都市内から逢坂の関を越えると、ほとんど同時といっていいくらいに空気が清澄になり、静謐で寡黙になる。さらに信楽まで辿り着くと、空の色がまるで違ってくる、透き通って青空の色が深くなるのだ。


歳をとってきたからかな?都会の喧騒の中(京都にいても思う)に居るより、静かでホッとできる、心洗われる場所に好んで居たい気持ちになる。久しぶりの信楽だけれど、今回はとくにタイヘンタイヘン、ホッとした気分になった。全く心が解きほぐされた。いつか、信楽・滋賀に帰れるだろうかと、思ってみたりもする。が、ま、それは、たまに行くからそんな風に思うのかもなぁ。


帰りたいという思いを叶えるには、ぼくの場合、沢山の困難なハードルを越えなければならない。そもそも、そんなハードルが出来てしまったのは、ぼくの自業自得・身から出た錆のせいでもあり、渡世の義理のせいでもあり、多少は運命のいたずらのせいでもある。(まことに残念ながら)


クラス会といえば、これも残念ながら参加者は少なかった。これも今の日本の時勢柄だろうか。
みんないろいろ事情があるからな!! 亡くなったクラスメイトも2人増えた。!!
けれどけれど!!!地元に住んでいるメンバーのお世話のおかげで、最高に楽しく、いい時間を過ごさせてもらった。みんな歳をとってしまったなぁ。


会の初頭にあいさつをしてくれと幹事さんから頼まれて、どんなことを喋ろうかと考えつつ浮かんできた思いがある。
それは、この歳まで、さまざまな垢がたまり、目詰まりが起きて、さまざまな屈折があり、義理の皮が厚くなってしまってはいるが、それを無理やり削ぎ落とし、引き剥がし、透かしてみると、存外ぼくという人間の本質というか気質というものあたりは、中学生時代とあまり変わってはいないなぁ、ということだ。そのことを挨拶で話した。けれど、こんな風に、昔のクラスメイトに会うと、ジワジワと中学生当時の空気というか肌触りが蘇ってくる。外側に付着しているものどもは、わざわざ引き剥がすようなことをしなくても、自然に融解していく。中学生時代の信楽で暮らしていたころの、いろいろな風景、情景といったものたちが、蘇ってくる。どれも多少ほろ苦く、多少甘酸っぱく、多少涙ぐましく、多少はほんのりしたものだけれど。不思議なことだ。


中学3年のクラス担任のI先生はもうすぐ80歳になられる。今もなお、なかなかのダンディでシックな紳士であり、ぼくにとってはいつまでもいい「先生」である。会の最中に、平均寿命まであと2年という歳になってしまったと自らいっておられた。先生とはときどきメールのやりとりがあって、お互いに元気でいるのを確認しあっているのだけれど、そういえば、何年か前「わたしも平均寿命まで10年になりました」という文言が入ったメールをいただいて、ギョっとした記憶がある。ときどきそんな風にグサっとくるような辛辣なことをおっしゃる。今回ぼくは先生の隣の席だった。そこでコソっとおっしゃる。「人間、気質・本質が変わらんのはDNAやで・・・」


DNAねぇ。ディオキシリボ核酸(Deoxyribonucleic acid)。中学からから高校に進んで、一年生の生物で最初で出てきたのがこれである。DNA はデオキシリボース(五炭)とリン酸、塩基 から構成される核酸で、螺旋状に繋がっているということらしいと・・・そんなことまで思い出してしまう。




地球上の生物はみんな独自のDNAを持っているが、これは自分の努力や祈りなどではどうしようもないものだ。ぼくという人間の深い闇の中で密かに息づいていて、ぼくの意図とは関係なくぼくを支配している。ぼくのようにあまり自分のことを気に入らないというか、自分に違和感をもっている者には暗澹たる気持ちになってしまう真実である。


<種において完璧なものは種をこえる ゲーテ>


DNA!いまいましいやつめ! 出来ることなら、ぼくの遺伝子を組み換えてもらいたいものだ!


<<付記: 3月2日の朝日新聞朝刊にあった記事。生物の分類をDNAによる分類法に変えようという方向にかなり進んでいるらしい。それも世界的に。ちょっと調べてみたら、今までの分類と全然違うものになっている。受験で文科系を受けたのに、入試に理科が2科目あってそのとき必死で覚えた分類だけれど、いまではすっかり忘れてしまっているので、ぼくにはあまり不都合はないのだが、しっかり覚えて込んでしまっている人にはこれは少なからずショックだろう。この分類法が取られると、人間は猿の仲間ではなくて、ゴキブリの仲間になってしまうかも知れない。>>