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2010年7月17日土曜日

白い雨と雷

「白い雨」。梅雨末期の雨をそういう表現をした人がいるらしい。「白い雨」ということばにあれこれ思いを巡らせているうちに、朝日新聞の「天声人語」先を越されてしまった。
http://www.asahi.com/paper/column20100715.html
それでもメゲないで!!

ほんとにこの梅雨末期の豪雨は雨筋も白いし、地面や建物にあたった雨粒が、飛沫となって、白いベールに包まれたような風景になる。100m先も見えない。ドシャ降り まさにバケツをひっくり返したような雨。雨音でラジオの音も聞こえないほど。幸いなことに、この借家の大矢さんが瓦屋なので、雨漏りの心配はない。(そのわりには床はブカブカだけれど)。各地で水の被害が出る。我が家の裏の岩倉川は、大丈夫だろうか?このあたりがいちばん堤防が低いところなのだ。

稲光! 京都の雷さんには名前が付いている。「丹波太郎」、北あるいは西からやって来る雷。「山城次郎」、南から来る。「比叡三郎(近江三郎)」。比叡山、大文字山、東山を越えて来る。今週の雷さんは、三郎さんのようだ。お兄ちゃんほど強いらしいが・・・・
夕立3日。うちのばあちゃんがいっていた。「雷が鳴ったし、もう梅雨明けや」。科学的な根拠はなく、経験則。それでももう梅雨が明けるという期待感がひろがる。

近年、気象予報では「梅雨明け」ということばをいわなくなった。「予想」も「宣言」もない。せいぜい「梅雨が明けたとみられる」とあとになって、こっそりというニュアンスでいうのみだ。はずれて痛いめをした「経験則」?

雷は建建造物や、背の高い木などの45度以内に居ると安全であるというはなしを聞いたことがある。だけど大木の傍は禁物。もしその木に落雷があると、巻き添えをくう。

安全いえば中学の頃、若い理科の先生がいっていた。台風の風のはなしである。台風の風向きは一定しいるから、風向きの反対側の窓を開けて眺めていても大丈夫であると。でもそれはしっかりした風邪の抜けない家の話だろう。我が家のようなあばら家では(大家さんが怒るかな?)とても大丈夫とはいえない。ましてや風の向きだって急変するかもしれない。台風の風向きだけでなく、世の中の風向きだって、ろくに読めていない。

2010年7月3日土曜日

八重甘茶さん

ずいぶん前から紫陽花の鉢が自宅にほしかった。それがやっと手に入った。

先週末(6月最後の週末)大阪の友人たちと総勢5人で、京丹後峰山の「天女の里」というキャンプ場でキャンプをした。キャンプといってもテントをはってするのではなく(実はテントで寝るのには、いささかトラウマがある)コテージを借りて自炊をするのだ。最近のキャンプ場のコテージは設備が良くて、エアコン、冷蔵庫、シャワー、風呂・・・今回はテレビまで備えられていた。(キャンプに来てまでテレビを見ようとは思わないが・・)

地元のスーパーや道の駅で買い物をして、できるだけ地元の食材を仕込む。そして自分たちで調理して食べる。これが安上がりで美味しいものが食べられる極意と知る。(大層かな?)

話を紫陽花に戻そう。そのキャンプの帰り道、京都丹波の道に駅で、山紫陽花の苗を見つけた。淡いブルーの好みのタイプだ! しかも値段が安い、¥250! 八重甘茶という品種だそうだ。 ふつう山紫陽花というとけっこういい値段で売られている。 苗だけでも¥600~¥1000。ちょっといい鉢に入っていると、¥1300から¥3000近くのものまである。もちろん品種によって貴重なものとかがあって、そういう品種のものは高いのだろうけれど、どちらかといえば、いやもともとぼくは植物を育てるのが下手なので、育てているあいだに枯らせてしまう確率だって相当高い。八重甘茶には申しわけないことだが、¥250というのは、ぼくとしては分相応というか、手を出しやすいのだ。迷わず買った。

ネットで育て方をいろいろ調べてみると、どうも花の衰える直前に花摘みをして、枝を剪定し、お礼の肥料をやるというのが「正道」らしい。いやその前に小さい窮屈そうなビニールの鉢に入っているのを、大きな鉢に移してやらねばならない。ここで実は迷った。せっかくきれいな花をつけているのに植え替えをして、枯らしてしまっては元も子もない。植物育ての下手なぼくには、そういうリスクが非常に高いのだ。それで花が衰えるまで、その小さな鉢のままで、花を楽しむことにした。これまた八重甘茶には申しわけないことだけれど、きっと八重甘茶さんは「やれやれ、えらいおっさんに買われたもんや」と思っているに違いない。

そんなことで、なんとか一週間花を愛でさせてもらった。八重甘茶さんありがとうね。ということで、やっと思い定め、今朝花摘み、植え替え、剪定をした。肥料もやった。おまけに剪定で伐った枝を別の鉢に五本ほど挿し木をした。すべてネットの教科書どおりに!(写真は花を摘まれる直前の八重甘茶さんです)

ところが、作業を終えたところで不吉なことを思い出した。ずいぶん前、まだ下京に住んでいたころのことだ。近所のおばさんが「手を嫌う」ということばがあるって。植物育成用語(俗信・俗語)にそういうのがあるらしい。どうもぼくの手は「嫌われている」のではないかと、思いあたるふしがある。何度か紫陽花の枝をパクってきて挿し木を試みたことがあるが、ことごとく失敗している。

とほほ、やれやれ。どういう結果になることかと、不安をかかえつつ、ふたつの紫陽花鉢を眺めている。

2010年6月13日日曜日

こんどは、小学校のクラス会


今年は小学校を卒業してから50年になる。半世紀が経ったわけだ。そのせいか、最近同い年の友人からのメールや郵便にも小学校のクラス会や同窓会などのイベントがあるという便りをよくもらう。なかには修学旅行を再現するというのもあったりする。

他聞にもれず、ぼくにも小学校のクラス会の案内が来て、この6月の初めの日曜日に出身小学校のある信楽へ行って、クラス会に寄せてもらった。こちらは担任だったS先生が平成の初めに他界されているので、まずはみんなで墓参りということになった。

ことしはたまたま、小中学のクラス会や同窓会が目白押しで、2月にも中学3年のクラス会があったばかりだし、8月には中学の学年同窓会がある。いつものことだけれど、地元で暮らしているクラスメイトたちが、頑張って手配準備をしてくれるので、とても楽しい有意義な集まりになる。ありがたいことである。

じつをいうと、ぼくの場合、小学校時代の思い出というものが、じつに曖昧なのだ。あまりに長い年月が経っていて、記憶の倉庫のはるか奥のほうに埋没してしまっている。断片的なシーンといったかんじの思い出があるのだけれど、霞がかかってフォーカスが合わないのだ。

それでも、クラス会では、みんなであの時はこうやった、ああやったと思い出を持ち寄って話しているうちに、そういうみんなの記憶がキルト・パッチワークのように縫い合われて、思い出の全体像が浮かび上がってくるのだった。

面白いのは修学旅行にお米を携えていったことを、誰かが覚えていて、ああそんなことあったなぁ。まだ食料統制の名残とかがあったり、食管法がきちんと施行されていたから?それとも旅費を少しでもやすく上げるため?ぼくらの小学生時代の昭和30年代は東京オリンピックのはるか前、みんな今みたいに豊かではなかった。お金持ちの家にテレビがあるくらいで・・・

田舎町で熟もなく、持ち回りでグループ学習をしていた。放課後帰ってから、グループで順番持ち回りで各自の家へいって、宿題をしたり、復習をしたり。担任のS先生がなんとかクラスの児童に勉強癖をつけせようと熱心で、今から思うといろいろ懸命に工夫をされていたようだ。

もうひとつ傑作な思い出。街の中心部のはずれに愛宕山という小高い里山がある。秘密基地というか隠れ家をつくったり、小枝を切ってチャンバラしたり、ふだんぼくらの遊び場になっていたところだ。ところがある時期、高校生ぐらいの男女をちょくちょく出没するようになった。ようするにそのカップルはデートを重ねていたのである。ある日そのデートの現場を何人かで覗きに行くことにした。ところが、小学生の幼稚な工夫ではすぐに見つかってしまい、なにしろその男はナイフを持っていて、それを太陽に光らせて追っかけてきたのだ。さあこちらは大騒ぎ、山の坂道を滑るやら、転がるやら、必死で逃げ帰ってきた。この事件、そもそもその覗きを先導したが、ぼくらしいのだ。ぼく自身には、先導したような記憶はないんだけれど、みんながそういうから、間違いはないのだろう。まるでスダンド・バイ・ミーの世界だ。

友人の兄貴が、小学生のぼくたちにいろいろ悪さを教えたこともあったし・・・

昭和20年代の終わりから30年代のなかば、昭和の真っ只中の田舎町、なんだか牧歌的な日々がつづいていた。そして、「戦後の空気」が、まだそちらこちらに、ぷかぷかと漂っていた。

放課後の小学校のグランドもだいじな遊び場だった。球技や砂場の相撲の途中で息を切らしてグランドの地べたに仰向けに寝転んだ時の、砂と土の匂い、目の前には無限に澄んだ青空が。いまごろになって、なつかしくほんのり記憶に蘇ってくる。

ところでひとつ気になることがある。クラス会に来ていた複数のメンバーが、ぼくのことを「いまだにおまえは謎や」というのだ。そんなことを人にいわれたのは初めてだし、何事かを秘匿して人生を送ってきたわけではないのだが・・・。どういうことだろう?

2010年6月3日木曜日

6月2日のメール


6月の最初のブログがメールの写しとは。もうメールで読まれた方には申しわけありません。


FMラジオのディスクジョッキーが云っていたのだけれど、6月2日鳩山首相が辞意表明した日は、「裏切りの日」だということだ。なぜそんな日に符合しているのかというと、いわゆる「本能寺の変」、織田信長が明智光秀に本能寺で急襲にあって自刃した日が6月2日だというのである。その時代旧暦なので、ぴったり其の日かどうかはわからない。
(五月雨でも旧暦でいうと、いまの梅雨頃の雨だというように)

それにしても正直、「政権交代」には、たくさんの期待をしていたのになぁと、いまごろ思い起こす。とはいっても、政治の世界だけでなく、世の中、いろんな思惑で人それぞれ動いているのだから、ままならないのは仕方ないはなしではあるが。

さて次の日曜日6月6日は二十四節季の「芒種」だ。稲などの穂の出る穀物を種をまく頃ということだが、最近は五月の連休の人手のある頃には、ほとんどの農家が田植えを済ませてしまっている。そういう品種の稲に変わったのか、それこそ地球の気候が変わったのか・・・ま、どちらもだろうけれど。

五月初めに、滋賀で田植えを目の当たりにしたのだけれど、いまは苗の植え付けはほとんど機械による作業で、その田植えの機械がほんとによく出来ているのに感心して見入ってしまった。水田の作業は、どろ沼を歩くのと同じで、一歩進むために足を引き上げるのにすごい力が要って、腰に負担がかかる。高齢になるととても耐えられんという話を、だいぶ前に親戚の農家のお年寄りに聞いたことがある。「ごはん党」のぼくにはちょっと肩身の狭いはなしだが。

紫陽花がぼちぼち咲き始め、このところ、ちょっと夏を思わせる天候になってきた。だけど本格夏の前に梅雨を乗り切らなければね!
というわけでもないのですが、
今月は所要のため、2回あらかじめ決めたお休みをいただきます。6月6日日曜日と6月26、27(土日)両日。この日は電話もほぼ電波の届かないところにある予定です。ご不便おかけするかも知れませんが・・・(最近はチョーひまなので、ご迷惑かけることはチョー少ないと思いますが・・・)

もうひとつお知らせ。
京都出町柳駅前のジャズの流れる喫茶店(お酒も、ケーキも、カレーもあります)「ラッシュライフ」のオーナーとお客有志が、また、今年も上賀茂神社の庁舎(ちょうのしゃ)でピアノコンサートを開催する。今回も南アフリカから、アブドゥラ・イブラヒムが来てくれることになった。少し先になる話だけれど、
10月2日、3日(土日)夕方。
世界文化遺産の中の、重要文化財の建物の中で、アマチュアのスタッフが最高の条件で最高の演奏を聴けるように、「手作り」でコンサートを準備する。

まだ、ポスター、チラシ、チケットはまだ出来ていないのに、どこで聞きつけたか、もう問い合わせが来ている。それで慌てて、今日「ラッシュライフ」のサイトを更新した。お早めにご予約ください。
「ラッシュライフ」のサイトはこちら。

ところで、来る6月8日はわたしの誕生日。63年も生きのびることができた。
「めでたくもあり、めでたくもなし」というところでしょうか?とりあえず無事であることに感謝!




2010年5月11日火曜日

やっぱり地球温暖化のせいか?


エイヤフィヤトラヨークトル(Eyjafjallajökull)。響きが耳になじみのない言葉だけれど、アイスランドの氷河の一つの名前である。この氷河、火山の上を覆っていて、その氷の重さでマグマの噴出する圧力に耐えている。ところがとうとうその圧力に耐え切れなくなって、噴火した。これが火山灰の影響で航空機の運行に混乱を起こした、3月20日の噴火である。


大西洋には中央海嶺といって、マグマが上昇してきて、地殻が盛り上がりプレートがヨーロッパ・アフリカと南北アメリカ大陸方面に分かれて移動する、ほぼ地球を半周するラインが走っている。アイスランドはそのラインの北の端のほうの真上にあって、絶えずマグマの上昇圧力にさらされていることになる。


この1000年ほどの間に、今年を含めて4回噴火しているらしいが、19世紀の噴火では有毒ガスで人畜にダメージを与え、氷河が溶けて洪水まで起こったという記録もある。今回は幸いなことにそういう報道はないが。

ぼくはひとの主張に感化されやすいたちなので、割引して読んでください。

4月の末頃、ネットでCNN WORLDの記事にアクセスしてみると、アラン・ワイズマン(読みかた間違ってたらごめんなさい、スペルはAlan Weisman)という人のコラムがあった。題して”Is The Earth Striking Back?" 。「地球の報復?」
アラン・ワイズマンという人、人気のノンフィクション作家だということだ。ベストセラーもあり、いろいろな賞も授与されているらしい。ぼくは不覚にも名前も知らなかったのだが。

他にも同様の説をとなえている人もあるようだけれど、とりあえずこの人の説として。このところ巨大地震や巨大噴火が世界のあちこちで多く起こっているのは、どうやら地球の温暖化が原因らしい。極地の氷や、いたるところで氷河が後退して、地殻の上の氷が軽くなり、地殻が伸び縮み、動きやすくなっているという説明だ。


何でも地球温暖化のせいにする風潮には疑問も持つが、アラン・ワイズマンは「今すぐ温暖化ガスの増加を食い止めないと、われわれの多くは生き残れないだろう」と警告している。

世界はみんなが気づかないうちに「やばい」状況に陥っていく。最近毎年のように新たに明るみに出てくる「金融危機」のように。そして、かつていつの間にか「茶色い戦争」に覆われたように。それにしてもこの火山国アイスランドの「金融危機」はその後どうなったのだろうか?いまはギリシャの財政危機の話題で持ちきりだけれど。

話を戻して、ぼくはヘイコラヘイコラ、ネットの英和辞典「英辞郎」を参照しつつ、このコラムを「解読」しましたが、英語に自信のある方は下記のサイトを。
http://edition.cnn.com/2010/OPINION/04/23/weisman.volcano.iceland.earth/index.html


もうひとつ、この記事で知ったこと。舌をかみそうな名前の「エイヤフィヤトラヨークトル」という氷河の近くに、シンクヴェトリル(Thingvellirなぜtがないのにヴェトリルなのかな?シングヴェリルでは??)という場所がある。10世紀の始め(930年ごろ)、ノルウェーからの移住してきた人々が、この地で「アルシング」という民主的な全島集会を催した。この全島集会は近代議会と類似の運営・議決の方法をとっていたらしい。10世紀に近代議会がすでに存在していたことになる。すごいね!10世紀始めというと、東洋では唐や新羅が滅び混沌状態。日本では菅原道真が大宰府に流されたり、紀貫之が活躍。平将門や藤原純友の乱があったころだ。

アイスランドは当然温泉も豊富なようだ。氷河の中に温泉があるかどうか知らないけれど、氷河を見ながらお風呂なんて、しびれそうですな。お酒、どうも地酒はウォッカの系統らしい、がアイスランドは20世紀の初期には禁酒政策を施行していたらしい。寒い土地だからといってウォッカをホットでやるのは無理だろうね。旧ローマ帝国の外だからワインを造る伝統は無さそうだね。寒いから醸造酒は無理か。

アイスランドは、一次エネルギー総供給量の8割近くを地熱と水力を主体とする再生可能エネルギーで確保しているということだ。日本も地域によっては地熱をもっと利用してもいいのでは。風や波ほど気まぐれでもなさそうだし。

アイスランドの宣伝をする、義理もないし、アイスランドへ行く資金も時間もなく、ただ京都の路地裏でネットの世界で眺めているだけなのだけれど・・・。

2010年5月5日水曜日

まつばうんらん




数年前から毎年いまごろの季節になると、小さな紫色の花をつける野草を、あちこちで見つけるのだけれど、名前を知りたくて調べてみても、我が家の植物図鑑をでは見つからず、ネット検索しても当りがなくて、ちょっと何か忘れ物をしているような、居心地の悪い思いをしていた。

ところが2日ほど前、ネットの植物図鑑で、他の草花の名前を調べているとき、偶然にもその花に出くわした。その名はまつばうんらん(松葉海蘭)。ちなみに、やはり我が家の植物図鑑にその名はなかった。

ネットで「まつばうんらん」で検索すると、なんと「マツバウンランの会」というのまである。いやはや、何でも「会」をつくるのが好きな人たちが大勢居るものだ。

以下はウィキペディアの項目から

マツバウンラン(松葉海蘭、学名:Linaria canadensis)はゴマノハグサ科ウンラン属の一年草または二年草。北アメリカ原産の帰化植物。日本国内では本州、四国及び九州に帰化し、日当りの良い場所に生える。高さは20〜60cmで、先端に紫色の花をつけ、下の方に細長い葉をつける。花期は4〜6月。葉の形が松葉、花がウンラン (L. japonica) に似ていることからこの名がついた。(ウィキペディア)

という解説。 花がウンランに似ているといわれても、そのウンランを知らない。まだ見たこともない。

2010年4月30日金曜日

藤村直樹が逝った

医師でミュージシャンでもあった、友達の藤村さんが亡くなった。予てから病状は良くないと本人から聞いていたけれど、3月には大きなライブをやったし、学術誌向けの原稿も精力的に書いていたようだし、医者不足で勤務先の病院の仕事もきついといいつつも、何とかこなしているようだったから、ちょっと過ぎるぐらい酒も飲んでいたけれど、こんなに急に逝ってしまうなんて想像だにしなかった。

月曜日に亡くなったということ、ぼくが知ったのは昨日の木曜日、行きつけの散髪屋の女主人から聞いて知ったのだった。最初は悪い冗談を聞いてるようで信じられなかったのだけれど、そんな悪ふざけでもなかった。昨日になるまで知らなかったのは、ぼくの不徳のいたすところだけれど、それも合わせて悔しい。ショックである。

そんなに生き急がなくても、と思ったりもするが。こういうありかたも、藤村さんの人生のスタンスかも知れないと思ったりもする。

しょっちゅう電話をかけてきて、わりと硬い内容やったり、酔っ払って何を云ってるのかわからないこともあったりで、先週土曜日午ごろ、ホームページをちょっと書き足しておいてくれ、という指示の電話があり、それがぼくが彼の声を聞いた最後だった。昨日は連休初日でまた藤村さんからきっと電話があるんではと、朝起きぬけに予想していたのだけれど、もう電話がかかってこない。(うるさいなぁ、と思うこともあったがね)淋しいなぁ。

30年にもなったね、付き合いが始まってから。藤村さんいろいろありがとうね。やっとゆっくり休めるのかな?不本意やろうけれど。

黙祷

2010年4月13日火曜日

宇治で花見 弘川寺西行桜のこと

宇治のお客さまで、庭に小さな枝垂桜を植えておられるKさんから、庭の桜がそろそろ見頃なのでいらっしゃい、弁当を用意して待っていますから、と招待を受けた。よろこんでと、早速出かける。

こじんまりした庭に高さ3・4mの枝垂桜が、楚々と花つけている。京料理の弁当をいただき、ビールを飲みながら2時間余り歓談。たのしいひとときを過ごさせてもらった。右の写真がその桜だ。

歓談の中で、Kさんこの前々日に河内の弘川寺に行ってきたとおっしゃる。西行が自らよんだ歌のどおりに亡くなった終焉の地である。ぼくのためにお寺のパンフレットを余分にもらってくださった。


以下はそのパンフレットと日本歴史地名大系(平凡社)からわかったこと。
真言宗醍醐派のお寺で正式には龍池山瑠璃光院という。本尊は薬師如来。寺内の海棠(バラ科の木)は大阪府指定の天然記念物。

寺伝には次のように書かれているそうだ。天智天皇四年(665)役小角(「えんのこづの」「役行者」のこと。この人古い伝承のあちこちに登場し、とんでもない説話の主人公になるが、実在人物らしいのだけれど、いったい、どういう人か)の草創。天武天皇五年(676)旱魃に際し役小角が祈雨を修し、寺号を下賜され勅願寺になった。天平年間(729-744)行基もここで修行したといわれる。弘仁三年(812)空海が嵯峨天皇の命によって来寺し寺観を一新したということだ。のちに空海を中興とされるのはこのためである。文治五年(1185)西行が当寺の空寂を慕って来寺し、建久元年(1190)二月当寺で没した。藤原俊成が「長秋詠草」に「円仁(西行のこと)ひじり・・・其年河内の弘川といふ山寺にてわづらふことありとききて、急ぎつかはしたりければ・・・年の果のころ京に上りてと申ししほどに、二月十六日になむかくれはべれける、・・・つひに二月十六日望の日をは遂げけること哀有難く覚えて・・・」と記している。
(「河内の弘川寺のその墓を春爛漫の頃訪れる人は、その思いのままに眠っている西行に、ある種の嫉妬と羨望を覚えるに相違ない」なんて書いている人もいる。---会田雄次)
中世、畠山氏の兄弟抗争に巻き込まれ、長禄四年(1460)当地一帯も戦場となって、兵火にかかり諸堂は消失し、衰微したという。
享保一六年(1731)今西行と称された似雲が来寺し、長年の念願であった西行の墳墓を遍路の途次に尋ねあて、境内に西行堂を建立した。(後世特に芭蕉をはじめ江戸時代の人は西行ファンが多かったようだね。「西行桜」という能・歌舞伎のせいかな)
寺の歴史のあらましはこんなところだ。

この宇治のKさん、万事ひかえめ、静かに語られる人なので、たいそうな表現はないのだけれど、語られることばから類推すると、弘川寺では、なかなか見事な「西行桜」が見られそうだ。宇治から3時間かかって弘川寺に到達したということだが、京都からだとどれくらいかかるだろうか? わざわざ大判の大阪府地図を持ってきて、拡げて説明してくださった。インターネットで見る地図とくらべて、紙の地図を拡げてみるほうが、ぐうっと想像力が動き出す。その場所に行ってみたくなる。

というわけで、歓談もそこそこにおいとまして、恵心院の三瀧春桜、宇治川公園の桜を眺めつつJR宇治へ。今回は前とは逆周りで木津、加茂、柘植、草津、京都。この逆周りのほうがなかなかよろしい。柘植で少々列車待ちがあるけれど、木津や加茂で待つよりはいい。ホームが広くて静かで、空気もうまい。
今回は笠置付近で車窓から見事な桜林が見えた。来年はがんばって、弘川寺と笠置へ花見に行きたいものだ。










2010年3月31日水曜日

西行忌

願わくは花の下にて春死なむ 
そのきさらぎの 望月のころ

いい歌ですね。

きょうは西行忌。 満月と釈迦の入滅には一日遅れはしたが、こんなにうまく、自分の歌の通りに死ねるものかと思うが、これも人徳かな。

その西行、もとは鳥羽院の北面の武士、佐藤義清(のりきよ)。23歳のとき妻子を捨て出家。末世に対する無常観からとか待賢門院との失恋が原因だとかいわれている。

北面の武士のころは清盛と同僚であったという憶測もある。頼朝には出会った記録があるが、義経とはない。義経を嫌っていたのではないかという御仁もおられる。どちらにせよ大変な時代を生き抜いたといえる。

歌人として後世に残したものは多く。江戸元禄時代芭蕉も影響を受けているということだが、ここらは専門家、批評家のお話を読むなり、聞くなりしてください。

洛西の花の寺には「西行桜」というものがあると聞くが、まだ見たことはない。能にも「西行桜」なる演目がある。花の歌の多い人である。

(写真は京都北白川にある古い木造の「銀月アパート」の桜です。

2010年3月26日金曜日

草津線の駅名



前回のブログでのお約束どおり、相変わらずのヒマにあかせ草津線の駅名地名について調べてみた。前回、前々回のブログに書いたように、このひと月ほどのあいだに、二度も草津線に乗る機会があった。よく思い起こしてみると、じつに二十年ぶりくらいの草津線だ。
久しぶりの草津線。手原から柘植までの車窓の風景が、何が特に見えるというわけではないのだが、とてもほっこりさせられる。魅力的な線だと思う。

草津線は東は鈴鹿に源流を持つ杣川(そまがわ)に添って走り、杣川が野洲川に合流してからは途中まで野洲川に添って、甲賀丘陵を横断している。甲賀の東、伊賀との境まで丘陵地で、しばしば境界争いがあったという。なるほど、油日から柘植のあいだで、どこが県境になるのかわかりにくい。


戦前から1965年まで続いた姫路駅 - 鳥羽駅間の快速列車(俗に参宮快速などと呼ばれ、戦前は食堂車も連結されていた)と、その格上げ列車の「志摩」のほか、京都駅と名古屋駅を草津線経由で結ぶ「平安」、京都駅から南紀へ向かう「くまの」などの気動車での急行列車があった(これら3種の急行の草津線内停車駅は、1978年時点で草津・貴生川・柘植のみ)が、日本国有鉄道(国鉄)末期にいずれも廃止になり、優等列車は姿を消した。(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/草津線

以下駅ごとの駅名の由来。主に角川日本地名代辞典26、平凡社日本歴史地名大系26、白水社 日本の神々5、(京都府立・市立両図書館より)、インターネット百科事典ウィキペディアを参考にした。

柘植(つげ
前回のブログをご覧ください。

油日(あぶらひ)
鈴鹿の南端の山にに大明神が降臨したとき、油に火がついたように大光明があがったという伝説にちなみ、油日岳といわれるようになった。(角川地名大事典)
この油日岳をご神体にした、重要文化財の油日神社がこの地にある。

甲賀 (こうか)
古くは鹿深(かふか)ともいった(日本書紀)鈴鹿の山は深いという由来説と、鈴鹿に向かう(かむか)から来たものだという説がある。奈良期には甲賀杣が置かれ、平安期には甲賀駅がおかれて、東海道と東山道の分岐点だった。甲賀という呼び名は、旧甲賀郡(いまは甲賀市と湖南市)全体を呼んでいるのだが、甲賀町という行政区域の中心がこの地にあった。

寺庄(てらしょう) 
飯道寺(はんどうじ・信楽)の所領だったことにちなむ(角川地名大事典)
飯道寺については一番最後をご覧ください

甲南(こうなん)
この駅は少なくとも1970年ごろまでは「深川」(ふかわ)だったと記憶している。甲南という名にしたのは行政区と駅名のズレで混乱を防ぐためかも。この地は深川宿彌が開いたという説がある。杣川の支流がここで合流する交通の要所になっていて、一時期物資の集積地で深川市場とよばれる地域があった。

貴生川(きぶかわ)
内貴、北内貴、虫生野(むしょうの)、宇川の四村が合併したとき、この四村の名前から一字づつとって貴生川村となる。その後貴生川町となり、1955年水口町と合併して、水口町の一部となる。平成の大合併で現在は甲賀市。

三雲(みくも)
この地に三雲山三雲寺が存在したという記述が正倉院文書にある(角川地名大事典)野洲川に流れ込む支流が集まってきて、水に臨んだ蜘蛛の手状に見えるのが由来という説もある(京都滋賀古代地名を歩く・吉田金彦)

甲西(こうせい)
草津線で一番新しい駅。行瀬区域「甲西町」の名(現在は湖南市)。甲賀郡の西部にあることによる。

石部(いしべ)
古くはいそべともいった。石灰新荘 石灰荘ともいった(角川地名大事典)石灰に産地になっていたのかな?東海道の宿場町。

手原(てはら)
栗東町(今の栗東市)と合併する前には、この地には手原村があった。手孕とも書いた。 手で女を孕ませた説話による。

全国各地に手孕説話(てばらみせつわ)というものがある。
女性が、その身体に男性の手が接触したのが原因で孕み、片手を産んだという説話。
この説話を地名の起源とする土地に、滋賀県旧手孕村があり、『広益俗説弁 遺篇』その他に記載がある。兵庫県旧手孕村にも村名の起源として同じ説があり、下総結城の手持観音の縁起もおなじ筋を説く。
この起源は中国で、李卓吾の『続開巻一笑』にあるから出たという説もある。
しかしいっぽうで肉体の一部を妊娠することから村の名となる話は別にある。たとえば『新編武蔵風土記稿』によれば、武蔵国膝子村は、村の農夫の妻が膝のようなものを産んだことから村名がおこったという。
つまり、神の来訪がその土地に子孫をのこすという考えが根拠となり、のちに来訪の象徴を手または足の痕として、これを神の接触の記念とする民俗があった。それゆえ、たとえ中国伝来の説話が起源であるとしても、他方の民俗がその成長、敷衍を助けたとも考えられるという。村名起源は、説話の連想からこじつけたものであろうという。
(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/手孕説話 

飯道山 (664.2)古くは 餉令山(かれいさん)ともいった。
飯道寺として奈良時代建立。 紫香楽宮の鬼門守護として建立された。ちょうど平安京の比叡山の役割を果たしている。平安時代には三十六坊あり、全国屈指の修験道寺院だった。
あわせて飯道神社がある。古くはいいみち神社とも読まれた。この一帯は古くは信楽杣があって、 とくに奈良時代は多くの資材が伐り出され、奈良に供給された。
飯道寺古縁起には次のような話がある。
    昔、摩訶陀国の大王の王子宇賀太子は弁天女と夫婦になり、仲むつましく暮らしていたが、弁天女は貧民を救うため、仏約によってわが国の餉令山に鎮座した。宇賀太子は弁天女を慕って村々を尋ねあるいたすえ、近江国甲賀郡油日に影向(ようごう)し、寺庄の常徳鍛冶に一宿を請い、弁天女の行方を尋ねると、常徳は弁天女が餉令山に遷座ましますことを伝えた。喜んだ宇賀太子は常徳に、食べても尽きることのない米や、蒔かずとも毎年生える大根の種を与え、立ち去るにあたり、「餉令山にいる私を尋ねたいときには、石楠花の葉に盛った飯を道標として尋ねてきなさいと」と言って姿を消した。常徳がその道標をもとに餉令山に登ってみると権現(飯道権現)に出会うことができた。そこで常徳は祠を建てて権現を祀った。
この由来譚は仏教説話を基本にしているが、宇賀太子は穀物神宇迦之御魂神(食稲魂神)と同一神格であり、弁天女は水神・龍神として広く民間信仰を集めてきた弁財天ののこと。この二神を集合させて「飯道権現」としたのは、農耕神が飯道山に鎮座するという山岳信仰が存在していたことを物語る。いまも「飯道山の水は米に良い」「飯道山に雲がかかると雨になる」「飯道山の雨と親類のぼた餅は呼ばんでも来る」という俗信がある。古くは飯道神に石楠花の葉に飯を盛り備えるという儀式があった。(日本の神々5 谷川健一編 白水社)


2010年3月22日月曜日

ちょっとお出かけ、小旅行気分・関西本線の駅名



この連休、仕事もなく電話もかからないので、連休初日に散歩がてら出掛けることにした。
元養護学校の教員をしておられたH(な)先生に、先日宇治の恵心院のことを話題にしたら、いちどぜひ彼も行ってみたいから、誘ってくれということになった。「鉄は熱いうちに打て」。
宇治に行くのに、すっと、まともに行っても面白くないので、JR、草津線、関西本線、奈良線をぐるっと回って行きまひょか。
答えはOK。面白そうですね。

朝10時前に京都駅を出発、まずは草津。草津線に乗り換え。草津・栗東の市街地を抜けると、田園風景が拡がる。ほっとしますね。同感。暑いくらいの陽気だったが、うっすら黄砂が舞う春霞。

H(な)元先生はスモーカーなので、草津線や関西本線のホームに喫煙所があるのが気になるらしい。「JR西日本は全面禁煙とちがうんですか?」といわれても、ぼくにはなんで未だにホームに喫煙コーナーがあるのかわからない。

朝ジャスト京都発の快速に乗ると、実は草津線も関西本線も1分刻みの乗換えなので、煙草なんかすってる暇はない。


草津線終点の柘植でかわいいディーゼルにのりかえ、伊賀盆地の田園風景をみて、伊賀上野を過ぎると、こんどは木津川上流の渓谷風景。加茂で電車に乗り換え。
じつは加茂駅のホームの端にも灰皿があって、やっと一服。木津でまた奈良線に乗り換えて、宇治へ。

運賃は京都から宇治¥230。違法ではないのだけれど、途中で改札は出られません。出るとその駅までの運賃が要る。3時間かかりました。

宇治川中ノ島公園ででスーパーの弁当をひろげ昼食。暑いしビールを飲みたいなあと、互いに言いつつ、これから歩かんといかんので、我慢。

まず宇治川右岸の恵心院。河津桜は、もう葉が出てきてそろそろ花が終りかけ。三春瀧桜がちらほら咲き。日向水木の黄色が鮮やか。ラッパ水仙、ボケ、連翹がところ狭しと咲き誇っていた。

世界文化遺産、宇治上神社に参拝。橋寺方生院で桃の花と芭蕉の句碑を見て、黄檗まで徒歩。
宇治山の手はなかなか歩き甲斐があります。誘ってもらったらいつでもお付き合いします。

京阪で四条河原町。裏寺の居酒屋で打ち上げといった一日でした。暑い日でビールがうまかった。

いつもながら長いブログになりました。じつはこれからが本題というか、エネルギーの入ったところですが、関西本線ってちょっと変わった駅名があるので、いろいろがんばって調べました。草津線も調べているのですが、それは次回に譲って、今回はこの「小旅行」乗った駅名だけということで・・・

興味のない方はここまででよろしいですよ。長いので。

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まず草津線から関西本線の乗り継ぎ駅

柘植(つげ)
柘植の地名については、かつてこの地に柘植の木が生い茂っていたことによるとされている。
古代は積殖・都美恵・柘殖と書きつみえと読んだ。平安中期には都介と書いてつけと読んでいた。
(角川地名大事典)
起伏の激しい土地であることから「尽き(継ぎ)」が転訛したと考えるのが妥当と思われます。
(JR西日本)これ勉強不足(ぼくの意見)

柘植の地名は古代には、つむけと呼んでいたらしい。つむけは、エゾ語のツムケ(東の方の)に由来し、東の方の意味の地名であると思われる。和名杪に記載されている古名の積殖の地名だが、エゾ語のツム イ ペツ(東 いる、 ある 江)に由来し、東にある江の意味の地名であると思われる。
この柘植の地には、次ぎのエゾ語系の地名がある。小登は、エゾ語のポン ヌプリ(小さい 山)に由来し、小さい山の意味の地名であると思われる。平尾崩は、ピラ オウシ(崖 ふもと)に由来し、崖のふもと(すそ)の崩れの意味の地名であると思われる。荒神平や大平の平は、ピラ(崖)に由来し、崖の地名と思われる。加太峠の加太は、鹿伏兎とも書いた。カ フトーネ(上 狭い)に由来し、上の狭いの意味の峠名であると思われる。
(インターネット・伊賀地方のエゾ語系地名 元高校教諭 澤田謙三 

新堂(しんどう)
東大寺の末寺がこの地に建てられたことに由来するといわれています。
(JR西日本)
地域内の首谷(こべだん)と柿谷(かきだん)にあった廃寺をまとめて新しい寺を建立したことに始まる。
(角川地名大事典)

佐那具(さなぐ)
朝日郎の矢が官軍の甲を貫き通した物語は周辺に鉄製武器製造の技術集団の存在をうかがわせ、天目一箇神に「鉄鐸を作らしむ」とあり、鐸を「作那伎」(さなぎ)読むが(古語拾遺)、南隣の千歳むらからは銅鐸が出土しており、佐那具の村名はこの「鐸」に関係する名称とも考えられる。
近世には佐那具宿がもうけられた。(日本歴史地名大系24三重県の地名より 平凡社)
また古代には、百済から渡来した佐奈伎氏が住んでいた。(角川地名大事典)

伊賀上野 
伊勢にも上野という藩があり区別するために伊賀上野となった。
(角川地名大事典)

島ヶ原(しまがはら)
地名の由来については、次の説がある。
(一)この地は山に囲まれているので、あたかも島のように見えることによる。
(二)大昔は、石をシマと言っていた。その頃、この地は石の多い原野であったことによる(地元の説)
  この地元の説を補うと、エゾ語で石をスマとかシュマと言う。したがって、
島ヶ原の地名はスマ パラ(石 広い)に由来し、石の広い意味のエゾ語系の地名と言えるだろう。
(インターネット・伊賀地方のエゾ語系地名 元高校教諭 澤田謙三 

月ヶ瀬口(つきがせぐち)
梅で有名な月ヶ瀬の谷に行く入り口。古くは月ノ瀬といった。
「この地より東下の梅渓と五月川のせせらぎに映る月影の美はまさに月と瀬の風情

大河原(おおがわら)
上野盆地を東と南から名張川と伊賀川がこの地の夢絃峡で合流して木津川になる。(角川地名大事典)

夢絃峡は、木津川と名張川の合流地点の峡谷で、深い緑の中に静かに横たわる深淵です。ここには、平安時代の大和国司絃之丞と名張郡司の娘夢姫の悲恋物語が伝えられ、夢絃峡の名も二人の名にちなんで付けられたといわれています。(京都府ホームページ)

笠置(かさぎ)
古くは鹿鷺と書いた。東大寺所領。
笠置寺縁起には大津皇子が狩猟のときこの地で事故にあい、山神の加護によって救助されたので、笠を置いて帰ったという。

加茂(かも)
賀茂氏が居住したことによる。興福寺・東大寺所領で賀茂荘。

というコースですが、関西本線・伊勢路には変わった駅名があります。
以下付録です。

一身田村(いしんでん)
天皇から親王・内親王その他勲功のある者に、その身一代に限って与えられる賜田に基づく。伊勢神宮の斎王に対し一代を限って与えられた賜田が語源になっているものと思われる。歴代斎王に逐次与えられたので、地名として定着した。
(日本歴史地名大系24三重県の地名より 平凡社)

加太(かぶと)
古くは賀太・鹿伏兎ともいった。地名からくる加太氏という氏族があった。加太越えはもともと東海道の本道筋であったが、鈴鹿峠越えが開かれて、関宿からわかれて上野城下方面に通じる道筋にかわる。加太宿がおかれた。(日本歴史地名大系24三重県の地名より 平凡社)

加太もしくは鹿伏兎の意味は不明。ただ頭を意味するカブトに似た点がある。
壬申の乱のおり大海人皇子が通過した。
(角川地名大事典)

これはJRではなくて近鉄から伊賀上野への乗換駅の名前です
伊賀神戸(いがかんべ)
神戸は、木津川上流の左岸で、出作川との合流地付近(上神戸)及び比自岐川との合流地付近(下神戸)に位置する。倭媛命が4年間ほど、天照大神を奉祭して滞在したと伝えられている穴太宮(神戸神社)がある。伊賀国造の伊賀津彦が、伊勢神宮に水田を寄進したと伝えられている。神戸の地名は、この地に伊勢神宮の神田があったとこによるとされている。
 三重県には、鈴鹿市、亀山市、津市、松阪市などにも神戸の地名があり、伊勢神宮の水田があった。地内に、突保池、浅妻の地名がある。 突保池はエゾ語のト ポン(沼 小さい)に由来し、沼の小さいの意味の池がある地名で。浅妻はエゾ語のア サットマ(アは接続語、乾く 沼地)に由来し、乾く沼地の意味であると思われる。
(インターネット・伊賀地方のエゾ語系地名 元高校教諭 澤田謙三 









2010年3月5日金曜日

クラス会・信楽・DNA

3月9日に少し書き直しました。


先月の最後の週末、出身中学校の三年生クラス会に出かけた。ぼくの出身は滋賀の信楽で、小学、中学、高校のはじめまで、信楽で暮らした。いまも母親の実家があったり、妹が嫁いでもいるのでまったく無縁というわけではないのだけれど、数年前に車に乗るのを止めてからすっかりご無沙汰になってしまった。


信楽に玉桂寺という弘法大師と縁のあるお寺がある。そのお寺で湧き出る水は、柔らかでほんのり甘い名水なのだけれど、車に乗っていたころには月に一度くらいはその名水を汲みがてら信楽を訪れていた。車に乗るのをやめてしまったの、すっかりご無沙汰になってしまった。いまの日本は、都市部から少し離れただけで、公共交通手段が不便で料金も高く(特にJRは私鉄が競合しない地域に入ると急に運賃が跳ね上がる)、車がないと足が確保しにくくなる。ご他聞に漏れず信楽もだ。足が遠のいてしまったのは、それがやはり大きな理由であるように思う。


京都市内から逢坂の関を越えると、ほとんど同時といっていいくらいに空気が清澄になり、静謐で寡黙になる。さらに信楽まで辿り着くと、空の色がまるで違ってくる、透き通って青空の色が深くなるのだ。


歳をとってきたからかな?都会の喧騒の中(京都にいても思う)に居るより、静かでホッとできる、心洗われる場所に好んで居たい気持ちになる。久しぶりの信楽だけれど、今回はとくにタイヘンタイヘン、ホッとした気分になった。全く心が解きほぐされた。いつか、信楽・滋賀に帰れるだろうかと、思ってみたりもする。が、ま、それは、たまに行くからそんな風に思うのかもなぁ。


帰りたいという思いを叶えるには、ぼくの場合、沢山の困難なハードルを越えなければならない。そもそも、そんなハードルが出来てしまったのは、ぼくの自業自得・身から出た錆のせいでもあり、渡世の義理のせいでもあり、多少は運命のいたずらのせいでもある。(まことに残念ながら)


クラス会といえば、これも残念ながら参加者は少なかった。これも今の日本の時勢柄だろうか。
みんないろいろ事情があるからな!! 亡くなったクラスメイトも2人増えた。!!
けれどけれど!!!地元に住んでいるメンバーのお世話のおかげで、最高に楽しく、いい時間を過ごさせてもらった。みんな歳をとってしまったなぁ。


会の初頭にあいさつをしてくれと幹事さんから頼まれて、どんなことを喋ろうかと考えつつ浮かんできた思いがある。
それは、この歳まで、さまざまな垢がたまり、目詰まりが起きて、さまざまな屈折があり、義理の皮が厚くなってしまってはいるが、それを無理やり削ぎ落とし、引き剥がし、透かしてみると、存外ぼくという人間の本質というか気質というものあたりは、中学生時代とあまり変わってはいないなぁ、ということだ。そのことを挨拶で話した。けれど、こんな風に、昔のクラスメイトに会うと、ジワジワと中学生当時の空気というか肌触りが蘇ってくる。外側に付着しているものどもは、わざわざ引き剥がすようなことをしなくても、自然に融解していく。中学生時代の信楽で暮らしていたころの、いろいろな風景、情景といったものたちが、蘇ってくる。どれも多少ほろ苦く、多少甘酸っぱく、多少涙ぐましく、多少はほんのりしたものだけれど。不思議なことだ。


中学3年のクラス担任のI先生はもうすぐ80歳になられる。今もなお、なかなかのダンディでシックな紳士であり、ぼくにとってはいつまでもいい「先生」である。会の最中に、平均寿命まであと2年という歳になってしまったと自らいっておられた。先生とはときどきメールのやりとりがあって、お互いに元気でいるのを確認しあっているのだけれど、そういえば、何年か前「わたしも平均寿命まで10年になりました」という文言が入ったメールをいただいて、ギョっとした記憶がある。ときどきそんな風にグサっとくるような辛辣なことをおっしゃる。今回ぼくは先生の隣の席だった。そこでコソっとおっしゃる。「人間、気質・本質が変わらんのはDNAやで・・・」


DNAねぇ。ディオキシリボ核酸(Deoxyribonucleic acid)。中学からから高校に進んで、一年生の生物で最初で出てきたのがこれである。DNA はデオキシリボース(五炭)とリン酸、塩基 から構成される核酸で、螺旋状に繋がっているということらしいと・・・そんなことまで思い出してしまう。




地球上の生物はみんな独自のDNAを持っているが、これは自分の努力や祈りなどではどうしようもないものだ。ぼくという人間の深い闇の中で密かに息づいていて、ぼくの意図とは関係なくぼくを支配している。ぼくのようにあまり自分のことを気に入らないというか、自分に違和感をもっている者には暗澹たる気持ちになってしまう真実である。


<種において完璧なものは種をこえる ゲーテ>


DNA!いまいましいやつめ! 出来ることなら、ぼくの遺伝子を組み換えてもらいたいものだ!


<<付記: 3月2日の朝日新聞朝刊にあった記事。生物の分類をDNAによる分類法に変えようという方向にかなり進んでいるらしい。それも世界的に。ちょっと調べてみたら、今までの分類と全然違うものになっている。受験で文科系を受けたのに、入試に理科が2科目あってそのとき必死で覚えた分類だけれど、いまではすっかり忘れてしまっているので、ぼくにはあまり不都合はないのだが、しっかり覚えて込んでしまっている人にはこれは少なからずショックだろう。この分類法が取られると、人間は猿の仲間ではなくて、ゴキブリの仲間になってしまうかも知れない。>>





2010年2月26日金曜日

寺島しのぶ

実はぼくは寺島しのぶのファンである。

もうひとつ、実は彼女の演技をスクリーンでも、舞台でも見たことがない。テレビでしか見たことがない。なのにファンとはオコガマシイとおっしゃる向きもおありでしょうが、それはひらにご容赦。今後チャンスがあれば是非ということでお許しを。

しかも寺島を「てらじま」と読むとは知らなかった。ますますアキマヘン!

その「彼女」がベルリン映画祭銀熊主演女優賞を受賞した。そもそも「この人、ええ女優さんになったなぁ」、と思ったのは、NHKの朝ドラ「純情きらり」を見たときだった。主人公の宮崎あおいのお姉さん、笛子さん役がよかった。(ちょっとマニアックかな?)

「純情きらり」という朝ドラの原作は、太宰治の娘さん津島祐子の谷崎賞作「火の国ー山猿記」という小説だ。ストーリーや舞台が「純情きらり」と全然違うのだけれど、なぜか人物配置だけを同じになっているというもの。何故このようなドラマが生まれることが可能なのか、未だによく分からないでいるのだけれど。

寺島しのぶは尾上菊五郎と富司純子(「非牡丹お竜」のころは「ふじじゅんこ」だったがいまは「ふじすみこ」と読むらしい。お竜さん京都一乗寺「京一会館」スクリーンでよくみたなぁ)の娘さん。男に生まれていたら歌舞伎役者になっていたかも(中村玉緒をちょっと思い出すが)。だけど、画面上の彼女はそういうサラブレッド的なものをあまり感じさせないというか、うまく潜めて、その上でその力をうまく使った演技があるように思う。

今回のベルリン映画祭での受賞は、監督が若松孝二の「キャタビラー」というタイトルの映画だ。そのことがぼくには、とても好感をもたらせている。学生時代とその後の荒んだ時代に若松の映画をたくさん見た。これも今はなき、京都一乗寺の「京一会館」で。

きっと「キャタビラー」を見に行くぞぉ!

てなわけで個人的なミーハーを書きました。

以下 Le Figaro 20 févr. 2010の お読みになれる方はどうぞ。
ぼくは半分くらいですが・・・



Shinobu Terajima sacrée meilleure actrice

Absente de Berlin, la Japonaise Shinobu Terajima, âgée de 37 ans, a remporté l'Ours d'argent de la meilleure actrice pour son rôle d'épouse martyre d'un soldat atrocement mutilé dans «Caterpillar» de Koji Wakamatsu. De leur côté, les Russes Grigori Dobrygin, 23 ans et Serguei Pouskepalis, 43 ans, ont remporté ex-aequo l'Ours d'argent du meilleur acteur dans «How I ended this summer», un thriller arctique d'Alexei Popogrebsky.

2010年2月21日日曜日

和邇浜

 気分が落ち込んだり、むしゃくしゃして、心の落としどころが見つからないとき、無性に琵琶湖を眺めに行きたくなる。琵琶湖を見たくなって、急に思い立って行くのが、大津市の和邇浜。和邇浜には水泳場と小さな漁港がある以外、とくに何もない。水泳場もずいぶん素朴なものだし、漁港も小さな漁船が数隻繋留されているだけのシンプルなものだ。

実のところ、この何もなさがとても気に入っている。しかもJRの駅から10分足らずで湖岸に着くので、車を持たなくなったぼくにはありがたい。

 いまの季節、風はまだ冷たいけれど、水の色も空の色も春めいて、日差しも少しづつ明度を増してくる。冬の水鳥がまだ逗留中で、静かな季節の風景にうまく溶け込んだアニメーションが見られる。今年は初めてスズガモという鳥を見た。最初は名前を知らなかったのだけれど、写真に撮って帰って、自宅の鳥類図鑑で調べて名前を知った。珍しい鳥ではないと思うが京都市内ではあまりお目にかからない。

和邇から琵琶湖を隔てた対岸には、近江八幡の長命寺の山、彦根の荒神山、それに琵琶湖でた唯一人の住む島、沖ノ島が望める。そして、そのはるか向こうに雪を頂いた、伊吹山、霊仙山、御池岳などの鈴鹿の山々が連って見える。振り返って西側を見ると、こちらも雪を頂いた比良の山並みが迫っている。

この季節の西風が冷たく強くときは湖の遥か北をゆっくりと雪のベールが西から東へ移動して行く。

JRを降りてまっすぐ東へ湖岸に歩くと、そこが和邇中浜。和邇浜は小さな川を境にして、北浜、中浜、南浜に分かれている。全長で2km足らずの砂浜を往復する間にも、刻々と水の色空の色が変わっていく。心が溶き解れてくる。

ところで、和邇という地名は、古代豪族のひとつ和邇氏(漢字の表記はいろいろあるらしい)の一派が、大和からこの地に移って定住したことに始まるとつたえられている。そういえば中浜で「和迩」という表札のかかった家を見たことがある。古代神話に因幡の白兎の話があり、その中に鰐が出てくるが(鮫のことらしいが)、和邇と鰐は何か関係があるだろうか。

この和邇の南隣に小野という地名がある。こちらも和邇氏から派生した豪族、小野氏がいたところだということだ。大きな新興住宅地に隣り合わせて、じつは本物かどうかあやしいけれど小野妹子の墓というのがある。小野道風を祀った神社もある。

そういえば、もうひとつ。『古事記』に、「其の謂はゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、・・・・」という下りがある。イザナミを追うイザナギが辿った道終点、黄泉の国と現世を隔てる壁となる坂のことだと解釈しているのけれど、この比良坂とこの地の山々の名称「比良」と何か関係あるだろうか。和邇浜から比良の山々を見上げると、何かからこちらを隔てる壁のように見えてならない。

2010年2月17日水曜日

蕗の薹(ふきのとう)


友人宅で美山(京都南丹市)でとれた蕗の薹をごちそうになった。早春のうれしいごちそうだ。

莟(つぼみ)とは 
なれも知らずよ 蕗のとう  蕪村>

蕗の薹という植物名はない。蕗の花の莟を蕗の薹とよんでいる。蕗の花が開き切って終わる頃、その周辺の地面から小さな葉が顔を出して、成長して蕗になる。


熊本大学薬学部のホームページによると「煎じて飲むと、せき止めや痰を切り、解熱作用もありかぜの初期には効果がある。・・・フラボノイド等のポリフェノールが多く、アクが強いので、特に胃の弱い人は、あく抜きをして食べることをお勧めします.」ということだ。

 最近読んだ杉本秀太郎の「みちの辺の花」というエセー集(講談社学術文庫 挿絵は安野光雅)には

「蛤(はまぐり)のお吸い物に蕗のとうをこまかく刻んで浮かせる。春の香りがお椀から立って、まことにうれしい気持ちになる」

というくだりがある。薬味に使うのがいちばん手っ取り早し、というところか。

蕗の薹を使った料理はいろいろあるだろうが、ぼくはふき味噌と天ぷらを好んでいる。

料理レシピでは次のようだ。
蕗の薹はさっと湯通しして水にさらす。味噌にに味醂・酒 お好みで砂糖を熱しながらまぜて あら熱をとったら、水気を切ってみじん切りにした蕗の薹をまぜるだけ。ぼくの好みでは砂糖が入らないほうがいいと思うけれど。甘くなりすぎるのでは・・・砂糖を使うのなら、三温糖かざらめを使いたい。

また別の料理レシピによると、てんぷらは低めの温度で揚げるのがコツ。揚げているうちに莟が開くと苦味が取れるということだ。だけどこの苦味がいいのだがネ。


2010年2月13日土曜日

またオリンピック開幕

  古代ローマの第2代ティベリウス、ユリウス・カエサルの養子アウグストゥスに続く皇帝だが、彼は古代ギリシアのオリンピック競技に出ていた。このティベリウスはローマの帝政の地盤を固めた人。最良の皇帝のひとりという評価もあるくらいである。

地味で堅実な施政をした人だけれど、ほとんどローマには居なくて、イタリア南部の地中海沿いカプリの別荘にいて、そこから政治の指揮をとっていた。

ティベリウスは、その別荘から船でギリシャに出掛け、オリンピック競技に参加していたということだ。種目は戦車競走とも走り幅跳びとも。成績の方は定かではない。

因みに、キリストが処刑されたのはティベリウスの施政下でのことである。当時のシリア総督であったピサロがこの処刑をティベリウスに報告していた形跡はないらしいが。

日本にも元オリンピック選手の首相がいたが、名政治家とはほど遠い人だったけれど・・・・

またヴァンクーヴァーでオリンピックが始まる。テレビはどのチャンネルも番組前宣伝で賑やかなことである。これが終わると、この夏にはサッカーのワールドカップ。冬季、夏季、さまざまなスポーツのワールドカップと、年がら年中のスポーツ祭典である。メディアの中のこの喧騒ぶり、かなり食傷気味になっているのはぼくだけだろうか?


2010年2月10日水曜日

立松和平が逝った

 立松和平が亡くなった。去年の暮「道元禅師」と「芭蕉の旅 円空の旅」をたて続けに読んだばかりで、あまりにも偶然で驚いている。けっして上手な小説家とはいえなしい。作品もそう多いとはいえない。どちらかといえば不器用な小説家であるが、その不器用さをいうか、朴訥さが愛せる作家である。

62歳で逝った。ぼくと同い年だ。多少はそういう近親さもあるのだけれど、まだもっと作品を残して欲しい人だった。

  梅寒し天寿全うせしとても  稲畑汀子  

2010年2月6日土曜日

雪積る



冬ながら 空より花の 散りくるは 
         雲のあなたは 春にや有るらん
  (ゆきのふりけるをよみける)  清原深養父

毎年いまごろの時期になると、
このうたを思い出す。
  
今朝、この冬初めて雪が積もった。北陸や北日本、九州でさえ大雪のニュースが続いていたのに、京都では積もるほどの雪が降らなかった。
   きのうお客さまの家で沖縄の古酒(くーす)をご馳走になり、酔っ払って家に着いたもので早めに布団に入った。ぐっすり寝込み目が覚めたら雪が降り積もっていた。積り加減からからみると、未明あたりから降り出したようだ。

   20歳代のころ、3年ほど滋賀県の彦根にいたことがある。滋賀県は湖東でも安土のあたりから北に行くと急に行の多い地域になる。ぼくがいた3年間の冬も雪が多く、毎日毎日降る雪にウンザリしたものだ。第一足廻りが悪くなるので、動きにくい。住んでいた下宿は古い家屋で気密性が悪く、寒かった。もっと雪の多い地方なら、動くどころか、雪下ろしや雪かきという仕事が加わるに違いない。それに比べると、京都の雪は雅で美しい。雪景色を楽しんでいられる。

   雪が積もっていても、臘梅のそばを通ると、雪風に乗っていい香りがただよってきて、思わず花のほうに近づきたくなる。

   そういえば、きのう読み終えた杉本秀太郎の「半日半夜」という随筆集のなかの「香木」をいうタイトルで次のような文章があった。

  「鼻が利くと警戒心も強くなりがち。人を嗅ぎ分け、危うきには近寄らず、逃げ足早く遠ざかる。その代わりいい匂いの藻を身につけている相手には忽ち好意を抱く。とすれば、警戒も無警戒も同じ習性に帰する。

                        市中は物のにほひや夏の月  凡兆

                                      あつしあつしと門々の声  芭蕉            」

   話が急に変わってしまったが、杉本秀太郎という人の文章はとても面白い。本職はフランス文学の先生らしいが、平家物語や徒然草などに関する著作がある。フランス文学の素養と、日本文化に対する造詣の深さが、うまく融合している。