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2010年1月12日火曜日

走る(動詞五段活用): 走らない、走ります、走る、走るとき、走れば、走れ、走ろう!!









《走る: 走らない、走ります、走るとき、走れば、走れ、走ろう!!》
(動詞五段活用)


かつて十数年以上続けていて、いつの間にか中断していたジョギングを、3年位前に車に乗るのを止めると同時に、再開した。条件つくりに力を貸してくれた人もいて、ラッキーではあったが・・・とにかく週3回から4回、3kmから4kmの道路を走り続けている。


この正月、テレビで箱根駅伝の中継を見ながら、村上春樹の「走ることについて 語るときに 僕の語ること」を読んだ。僕のジョギングでは、村上氏のマラソンランニングの、足元にも及ばないが、走ることについての共感できることがあり、納得のいくことがあった。

★走れ
というような、神様からの啓示があったわけではないのだが、30歳代のごく初めに、ジョギングを始めた。それまで何だか体を動かしていたい衝動があって、会社の人たちと野球をしたり、友人とテニス楽しんだりしていたのだけれど、(賭けテニスというのもやったなぁ)結局、相手の確保、フィールド・コートの確保などがなかなか思うように行かなくて、続かなかった。家の前に道路があって、靴さえあれば走れる。なんとなくそんな思い立ちで、ジョギングを始めた。


 こういう思い立ちの引き金を引いたのは、京都修学院の開業医の先生からでプレゼントされた、走る大脳生理学者・久保田競 という人の「ランニングと脳」という本だ。とても幸運なタイミングだった。人生に、もっとこういう機会が多くあればいいのだが、その時にそれほど重要な認識がなく、気がつかないことも多い。
 といってもその本、読んではみたが、内容を十分理解たわけではなく、ランニングは脳の活性化にいい作用をもたらし、体も精神もとてもいい状態になる、免疫力も上がる、といった、あいまいでいい加減な理解、もしくは思い込みでスタートした。それが正確な理解なのかはいまでも判っていない。(先生には学生時代から今にいたるまでプライベートでも仕事でもお世話になりっぱなしだ)


ジョギングを始めたころ、長男が小学5年生で、ぼくのジョギングにくっついて走っていたのだけれど、あっという間に、ぼくの方が彼についていけなくなってしまった。彼は、今はすっかりマラソンランナーになって、レースに出て走り続けている。


《世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたいと」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。》
これは先の村上春樹のエセーの一節だ。まったく同感。ぼくもジョギングをやり始めたころも、そして再開した今も、ときどきそういった冷笑的(嘲笑的)なことばを投げかけられる。いつも何かのために--たとえば健康のためとか、友愛のためとか、世界平和--核廃絶のためとかのため---に走っているわけではない。


★走るとき
 走っているとき、何を考えているか?肉体的なしんどさに気持ちが行っているときは、たとえばデフレスパイライラルのように、悪い渦に落ちていってしまう。もう歩こうか、どこまで走れるだろうか、というような混乱で頭の中がいっぱいになる。
 かえって、心配事があったり、頭の中に課題が渦巻いていたするほうが(走るときにはなるべく忘れたいのだが)肉体的な苦痛を忘れ、誤魔化せそうなことが多い。走っているうちにそれがうまく昇華できて、「空(くう)」の領域に入り込めると、とてもうまく距離と時間をこなせる。風景や鳥の声(そして早朝は猫があちこちの路上で遊んでいる)を楽しめるときもいい状態で走れる。


村上春樹のエセーで、ウルトラマラソンの体験談が出てくる。(観照という仏教のことばがしばしば出てくる)。75kmを越えることに、急に楽に走れるようになる場面が出てくる。ランニング・ハイ。解脱。悟りを開くまでは行かないだろうが、走ることは、なにか禅の世界に近いように思う。(去年末に立松和平の道元の評伝を読んだせいかも・・ぼくはすぐに感化される性格ではある・・・残念ながら)


★走ります
先に引用した村上春樹のエセーで、村上がマラソンランナーの瀬古氏にインタビューをしている一節があった。
Q「体が重くて今日は走りたくないということはないのですか」
A「そんなことは、しょっちゅうですよ!」
 村上春樹はランニングシューズの紐をしめるとき、ラッシュアワーの満員電車に乗る苦痛を免れているのだから、と自分に言いきかせるということでスタートするということだ。
 ぼくの場合は、そこまでの覚悟というか入れ込みもなくスタートする。今日は体が重いから(そんな日のほうが多いのだが)途中で歩いてもええや、ということでジョグを始める。このあたりが人体の不思議なところで、体が温まってくるとけっこう調子がでてきたり、今日は体が軽いからと思って油断していると、途中でへばってしまったりする。


★走らない
 車に乗るのをやめて、毎日電車・バスで移動している。
 デメリット=簡単に自分の行きたいところに行けない。解決策=時間の余裕持って、路線や段取りを考えて行動する。
 メリット=電車やバスで移動中に本が読める。居眠りをして、睡眠不足を補える。車に乗るのを止めて読書量が4倍以上に増えた。
 バス停にバスが見えていても、ぎりぎりでは走らない。京都の市バスは、空席の多いバスがすぐに来る確立が高い。遅れそうになっても走らない。肝に銘じて!

走れば
 走っている時間はしんどかったり、楽しかったり、何も感動がなくてつまらんかったり、それでも「空(から)」の状況に近づいていく。この瞬間がとても気持ちがいい。早朝に走るとうまくそういう状態に入れる。
★走ろう
とはいってもぼくのランニングとはいえず、ジョギングではある。1km早くて6分代後半、途中でしんどくて歩いたりすると、1km8分近くかかっている。それでも続けている。走ることが生活習慣になっている。瑣末なことながら・・・・天候や怪我で走れないと、何か大事な用事をやり残してたままでいるような気分になる。

《どんな髭剃りにも哲学がある。》(サマセット・モーム) ということらしい