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2010年4月13日火曜日

宇治で花見 弘川寺西行桜のこと

宇治のお客さまで、庭に小さな枝垂桜を植えておられるKさんから、庭の桜がそろそろ見頃なのでいらっしゃい、弁当を用意して待っていますから、と招待を受けた。よろこんでと、早速出かける。

こじんまりした庭に高さ3・4mの枝垂桜が、楚々と花つけている。京料理の弁当をいただき、ビールを飲みながら2時間余り歓談。たのしいひとときを過ごさせてもらった。右の写真がその桜だ。

歓談の中で、Kさんこの前々日に河内の弘川寺に行ってきたとおっしゃる。西行が自らよんだ歌のどおりに亡くなった終焉の地である。ぼくのためにお寺のパンフレットを余分にもらってくださった。


以下はそのパンフレットと日本歴史地名大系(平凡社)からわかったこと。
真言宗醍醐派のお寺で正式には龍池山瑠璃光院という。本尊は薬師如来。寺内の海棠(バラ科の木)は大阪府指定の天然記念物。

寺伝には次のように書かれているそうだ。天智天皇四年(665)役小角(「えんのこづの」「役行者」のこと。この人古い伝承のあちこちに登場し、とんでもない説話の主人公になるが、実在人物らしいのだけれど、いったい、どういう人か)の草創。天武天皇五年(676)旱魃に際し役小角が祈雨を修し、寺号を下賜され勅願寺になった。天平年間(729-744)行基もここで修行したといわれる。弘仁三年(812)空海が嵯峨天皇の命によって来寺し寺観を一新したということだ。のちに空海を中興とされるのはこのためである。文治五年(1185)西行が当寺の空寂を慕って来寺し、建久元年(1190)二月当寺で没した。藤原俊成が「長秋詠草」に「円仁(西行のこと)ひじり・・・其年河内の弘川といふ山寺にてわづらふことありとききて、急ぎつかはしたりければ・・・年の果のころ京に上りてと申ししほどに、二月十六日になむかくれはべれける、・・・つひに二月十六日望の日をは遂げけること哀有難く覚えて・・・」と記している。
(「河内の弘川寺のその墓を春爛漫の頃訪れる人は、その思いのままに眠っている西行に、ある種の嫉妬と羨望を覚えるに相違ない」なんて書いている人もいる。---会田雄次)
中世、畠山氏の兄弟抗争に巻き込まれ、長禄四年(1460)当地一帯も戦場となって、兵火にかかり諸堂は消失し、衰微したという。
享保一六年(1731)今西行と称された似雲が来寺し、長年の念願であった西行の墳墓を遍路の途次に尋ねあて、境内に西行堂を建立した。(後世特に芭蕉をはじめ江戸時代の人は西行ファンが多かったようだね。「西行桜」という能・歌舞伎のせいかな)
寺の歴史のあらましはこんなところだ。

この宇治のKさん、万事ひかえめ、静かに語られる人なので、たいそうな表現はないのだけれど、語られることばから類推すると、弘川寺では、なかなか見事な「西行桜」が見られそうだ。宇治から3時間かかって弘川寺に到達したということだが、京都からだとどれくらいかかるだろうか? わざわざ大判の大阪府地図を持ってきて、拡げて説明してくださった。インターネットで見る地図とくらべて、紙の地図を拡げてみるほうが、ぐうっと想像力が動き出す。その場所に行ってみたくなる。

というわけで、歓談もそこそこにおいとまして、恵心院の三瀧春桜、宇治川公園の桜を眺めつつJR宇治へ。今回は前とは逆周りで木津、加茂、柘植、草津、京都。この逆周りのほうがなかなかよろしい。柘植で少々列車待ちがあるけれど、木津や加茂で待つよりはいい。ホームが広くて静かで、空気もうまい。
今回は笠置付近で車窓から見事な桜林が見えた。来年はがんばって、弘川寺と笠置へ花見に行きたいものだ。










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