眼科医で現役時代は、医療保険制度の改革や平和運動で活躍されたようだが、ぼくがお付き合いさせてもらったのは、最晩年の10年間ほどで、そちらのほうの話は詳しくは知らない。ぼくが聞いた「昔話」は、軍医としてビルマ(ミャンマー)に従軍され、敗戦で食糧や医薬品の供給がなくなり、若い兵隊の命を救えなかったり、空腹を抱えて森をさ迷ったり、英軍の捕虜になったりで、命からがら引き上げてきた話や、娘さんの子供のころの話がほとんどだった。
中野さんの家の前にモウソウダケが何本も植えてある。ビルマで食料がなくなったとき、地元の人に教えてもらって、竹に塩を入れて水で煮込み、柔らかくして食べた体験があって、食料に困ったときに食べられるように、食べ物がなくなる経験を忘れないように、と竹を植えているということだ。
このような話を聞きながら思うのは、人類の歴史をつらつら振り返ってみると、今の日本のように、平和が続いていることのほうが不思議だということ。(ほんとに平和なのかどうか異論もあるだろうし、まして、グローバルな視点でいえば、決して平和といういう状態は瞬時もないのだが。)
大津市で作られている、「はなかみ通信」という小冊子が年3・4回送られてくる。その冊子の「いろはがるた」のページの「て」のカードに「『天国九条の会』が発足したョ。」というのがあった。戦争を体験し、身をもって平和を守ろうという人たちが次々と他界していく。
中野さんがパソコンを始められたのは、90歳目前のときだ。それから約10年、途中で少し休みがあったりもしたが、ほぼ毎週一回、深泥池近くの自宅まで通った。最後のパソコンレッスンは去年の暮れのクリスマス前だった。最初はインターネットというものが、どんなものか体験してみたいということだった。いろいろなウェブサイトを見に行ったり、ナカノ眼科のメールマガジンを配信してもらったり、親しい人たちとメール交換をしたり、お歳がお歳なので毎週根気良く、同じメニューを繰り返して練習された。90歳を越えた生徒さんがいるというのは、ぼくの仕事の「看板」的な存在で、ありがたかった。
ここ2年前くらいまえ、2度目の奥さんを亡くされてから、少しづつ何かもかもに衰えが見えはじめ、パソコンのレッスンもネット上の写真や、Youtubeを見たりという受動的な楽しみ方に終始していた。介護の人も24時間詰めるようになってはいたが、今年に入って体調をくずされたようである。
それでも、この1月の下旬には自宅で新年会をやりましょう、とお招きを受けていたのだが。娘さんから訃報を受けたとき、電話をくださった娘さんの第一声が「新年会はやめになりました」というのだ。それに続いて「父が亡くなりました。」
かなりさみしい。
家族の方、介護の方ご苦労様でした。
冥福を!!
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