今年は小学校を卒業してから50年になる。半世紀が経ったわけだ。そのせいか、最近同い年の友人からのメールや郵便にも小学校のクラス会や同窓会などのイベントがあるという便りをよくもらう。なかには修学旅行を再現するというのもあったりする。
他聞にもれず、ぼくにも小学校のクラス会の案内が来て、この6月の初めの日曜日に出身小学校のある信楽へ行って、クラス会に寄せてもらった。こちらは担任だったS先生が平成の初めに他界されているので、まずはみんなで墓参りということになった。
ことしはたまたま、小中学のクラス会や同窓会が目白押しで、2月にも中学3年のクラス会があったばかりだし、8月には中学の学年同窓会がある。いつものことだけれど、地元で暮らしているクラスメイトたちが、頑張って手配準備をしてくれるので、とても楽しい有意義な集まりになる。ありがたいことである。
じつをいうと、ぼくの場合、小学校時代の思い出というものが、じつに曖昧なのだ。あまりに長い年月が経っていて、記憶の倉庫のはるか奥のほうに埋没してしまっている。断片的なシーンといったかんじの思い出があるのだけれど、霞がかかってフォーカスが合わないのだ。
それでも、クラス会では、みんなであの時はこうやった、ああやったと思い出を持ち寄って話しているうちに、そういうみんなの記憶がキルト・パッチワークのように縫い合われて、思い出の全体像が浮かび上がってくるのだった。
面白いのは修学旅行にお米を携えていったことを、誰かが覚えていて、ああそんなことあったなぁ。まだ食料統制の名残とかがあったり、食管法がきちんと施行されていたから?それとも旅費を少しでもやすく上げるため?ぼくらの小学生時代の昭和30年代は東京オリンピックのはるか前、みんな今みたいに豊かではなかった。お金持ちの家にテレビがあるくらいで・・・
田舎町で熟もなく、持ち回りでグループ学習をしていた。放課後帰ってから、グループで順番持ち回りで各自の家へいって、宿題をしたり、復習をしたり。担任のS先生がなんとかクラスの児童に勉強癖をつけせようと熱心で、今から思うといろいろ懸命に工夫をされていたようだ。
もうひとつ傑作な思い出。街の中心部のはずれに愛宕山という小高い里山がある。秘密基地というか隠れ家をつくったり、小枝を切ってチャンバラしたり、ふだんぼくらの遊び場になっていたところだ。ところがある時期、高校生ぐらいの男女をちょくちょく出没するようになった。ようするにそのカップルはデートを重ねていたのである。ある日そのデートの現場を何人かで覗きに行くことにした。ところが、小学生の幼稚な工夫ではすぐに見つかってしまい、なにしろその男はナイフを持っていて、それを太陽に光らせて追っかけてきたのだ。さあこちらは大騒ぎ、山の坂道を滑るやら、転がるやら、必死で逃げ帰ってきた。この事件、そもそもその覗きを先導したが、ぼくらしいのだ。ぼく自身には、先導したような記憶はないんだけれど、みんながそういうから、間違いはないのだろう。まるでスダンド・バイ・ミーの世界だ。
友人の兄貴が、小学生のぼくたちにいろいろ悪さを教えたこともあったし・・・
昭和20年代の終わりから30年代のなかば、昭和の真っ只中の田舎町、なんだか牧歌的な日々がつづいていた。そして、「戦後の空気」が、まだそちらこちらに、ぷかぷかと漂っていた。
放課後の小学校のグランドもだいじな遊び場だった。球技や砂場の相撲の途中で息を切らしてグランドの地べたに仰向けに寝転んだ時の、砂と土の匂い、目の前には無限に澄んだ青空が。いまごろになって、なつかしくほんのり記憶に蘇ってくる。
ところでひとつ気になることがある。クラス会に来ていた複数のメンバーが、ぼくのことを「いまだにおまえは謎や」というのだ。そんなことを人にいわれたのは初めてだし、何事かを秘匿して人生を送ってきたわけではないのだが・・・。どういうことだろう?
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