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2014年11月25日火曜日

皇帝ダリア

写真は皇帝ダリア。木立ダリアとも呼ばれます。キク科ダリア属の多年草。学名は Dahlia imperialis、英名は Tree dahlia、なので「皇帝ダリア」というのは学名、「木立ダリア」というのは英名の翻訳ということになりますね。

多年草というには木本のようにしっかりした茎で背が高くなる。写真のモデルも5m位の高さがありました。11月の末から咲き始めますが、紅葉の賑わいに隠れて、花が目にとまるようになるのは、12月に入ってからになります。

花の少ない冬に入って、目を楽しませてもらえる嬉しい花です。しかも背が高くゴージャスな印象で、花の色はすがすがしい。まことに「皇帝」の名をつけたくなる気持ちがわかります。

写真はどちらも5年前のフォルダーに入っていたので、その頃撮ったものに間違いないのですが、何処での写真なのかはっきり思い出せない。前後の写真から判断して、上が近江の和爾浜。下が大山崎。この花の名前を知ったのもこのころだと思います。花でもご婦人でも名前を知ると一層親しみが持てる。

「皇帝ダリア」については、エピソードもありませんので、ここで雑学をひとつ。このダリア属の「ダリア」という名前ですが、18世紀のスウェーデンの植物学者アンデシュ・ダールAnders (Andreas) Dahlさんに因んでいるそうです。このダールさん、生物分類の祖リンネのお弟子サン的な存在だそうですが、この植物ダリアにダールの名前を用いた人やいきさつについては異論がたくさん存在して、本当のところは判らないそうです。このへんのことはインターネットの百科事典Wikipediaを参考にしました

このブログは京都 池上助産院さんのホームページに掲載したものと同じ内容です。

2014年10月23日木曜日

 Impronptu 金色のちひさき鳥のかたちして銀杏・・・



金色のちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり岡の夕日に
                      与謝野晶子 『恋ごろも』

写真は今宮神社前2009と京都大学吉田寮前2012です。太陽光線がちょっとシックになるこの季節、イチョウの黄色は街の風景を明るくしますねえ。あまり銀杏の写真を沢山ならべると、写真からイチョウ独特の臭いが出そうですな。

あゝ、そうです、この銀杏のこの臭い、ビロボールbilobolとイチョウ酸という物質の匂いなんですって。「植物文化研究会編『花と樹の事典』柏書房」という本のイチョウの項目に書いてありました。今回はこの本に頼って書きます。

ところでイチョウのこと漢字で「公孫樹」とも書くことがありますね。「公」は祖父の尊称で、祖父が植えても実がなるのは孫の代になることからだそうです。でもいわゆる「ギンナン銀杏」は実ではなく、種だそうです。おいしいのですが、食べ過ぎると中毒症状をおこすそうですよ。気をつけて。その他薬用としては咳止め、去痰に使用されることもあると書いていますが、葉を書籍に挟んでおくと紙魚(しみ)除けになるとも書いてある。こちらは試してみてもあまり害はなさそうだ。

そこで、「イチョウ」という日本語の語源なのですが、いろいろ説がある。
①中国名の一つ「鴨脚樹」の鴨脚の発音を日本で「ヤーチャオ」と聞き、それがイーチャオとなり、さらに転訛した。
②葉が一枚であるため一葉の意味
③漢名の銀杏をイキョウと発音し、これが訛ってイチョウになった。
④葉の形をチョウ(蝶)に見立て、イ(寝)寝たるチョウの意味から。
別に学術的に調べたわけではないのですが、②と④はなんともこじつけっぽいですねぇ。

日本では相当昔から自生も、栽培もしていたようですが、渡来時期はわからない。ただ江戸期元禄時代に、この銀杏を珍しがったドイツ人ケンペルによってヨーロッパに紹介され、以後世界中に栽植されたということです。

このイチョウという植物、「生きた化石」といわれています。分類でいうと裸子植物門イチョウ綱ということ。あの映画「ジュラシックパーク」で一躍ポピュラーになった中生代ジュラ紀(約1億9000万年前)にイチョウの仲間の植物は最も繁栄していた。その中で現存するのがこの一種のみ。つまり、イチョウ科の植物はイチョウのみということになります。銀杏の御先祖さまは恐竜たちの雄叫びを聞いていたのですねぇ。(恐竜たちが最盛期を迎えるのは、ジュラ紀のあとの白亜紀だそうですが。)ちょっと感動します。


(このブログは京都四条大宮の池上助産院のサイトに掲載したものと同じです。)
                                 

2014年9月26日金曜日

藤 袴


古い写真を整理しているとき、2006年に
撮ったものの中に、アサギマダラと藤袴のツーショットを見つけました。当時わたしが使っていたデジタルカメラの性能から考えると、非常に良く撮れた写真です。まずは自画自賛!
なにぶんにも八年も前のことですから、撮影場所のことは正確には思い出せないのですが、
おそらく京都鹿ケ谷の大豊神社ではないかと思います。



下のもう一枚の写真は、去年下鴨神社で撮った藤袴。さすが咲きっぷりがみごとです。

萩の花尾花葛花
瞿麦(なでしこ)の花女郎花
また藤袴朝顔の花
       山上憶良
万葉集に詠まれているということは、
この植物、万葉の時代には日本に存在していたことになりますね。秋は香りのいい植物が多いですが、この藤袴もとても香りのいい植物で、古くは中国あたりでは、お風呂に浮かせたり、頭髪を洗うのに使っていたそうです。そんなことからでしょう、相当古い時代に大陸から日本にやって来た植物であるというのが定説。だけど大陸だけではなく、もともとわが日本列島にも自生していたという説もあるそうです。『万葉集』のほか『日本書紀』にも出てくる。このあたりは小学館の『日本大百科全書』の記事を参考にして、知ったかぶりをしています。だけど古い時代のことはよくわからないことが多いですね。人間のさまざまな生の活動が、記録を消してしまったりする。

そんな藤袴も絶滅危惧種にされている植物のひとつです。土地開発などの行為で自生できる平地の草地がなくなってしまった。

ついでに、よくわからないことをもう一つ。万葉仮名では「布知波加麻」などと書かれていたわけですが、漢字の用法が定着すると「藤袴」という意味のある漢字があてられたが、その理由や由来をちゃんと書いたものがないそうです。(『野草の名前 秋・冬』山と渓谷社)

花弁が袴のかたちをしているとか、その花弁から花芯が足のように伸びて出ているとかが名前の由来。想像力が豊かな人がいつの時代にも居るもので、いろんな説がありますが、藤袴に関してはそうとんでもなくて面白い説は無さそうです。

(このブログは京都 池上助産院さんのホームページに掲載されたものと同じです。)

2014年8月25日月曜日

萩と月 2014 


一家に遊女も寝たり萩と月  芭蕉


写真は京都左京区に二か所ある「萩の寺」の萩、昨年撮ったものです。


それにしても上の句、芭蕉の句にしてはずいぶん艶っぽいですね。『奥の細道』の「市振」での一句。教科書などで「細道」に出会った人も、原文に挑戦したことのある人も、もうこの紀行も終わりの方なので、ここまでたどり着けなかった方も多いのではないでしょうかね。それでこの句には出会わなかった。そんな方には、千載一遇の機会ですよ。
「市振」は今の新潟県糸魚川市の西部、もう富山県境が目の前というところです。当時から港町だったということで、華やいだ空気が漂っていたのでしょうか。芭蕉翁もちょっと華やいだ?

芭蕉は「今日は親知らず、子知らず、犬戻り・・・」という出で「市振」を書き出しています。ここは原文を読んでいただくのがいいのですが、今回手っ取り早く、現代語訳でいきます。先年若くして亡くなった立松和平さんの『スラスラ読める「奥の細道」』(講談社)からそのままお借りします。細かいところが違っていたらごめんなさい、わたしのタイプミスです。

迎穪寺
≪ 市振  親知らず、子知らず、犬戻り、駒返などという北國一の難所を越えて、疲れてしまった。枕を引き寄せて寝たところに、一間隔てた西の方に、若い女二人の声が聞こえた。年老いた男の声もまじって物語をするのを聞けば、越後の新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をするということで、この関まで男が送ってきて、明日は男に託(ことづ)けて故郷に返す手紙をしたためて、細かな言伝えなどしてやっている様子だ。白波が寄せる渚に身をまかす漁師のように人生の波にさすらい、この世の底まであさましく身を落とし、夜毎に変わる定めなき契り、このような日を送る前世の業因はなんと悪いことかと、話を聞きながらうとうと眠ってしまった。
朝旅立とうとするとき、私たち向かって「行方もわからない旅路の心細さ、あまりにおぼつかなくて悲しゅうございますから、見え隠れしながら御跡をついていきとうございます。僧の衣をお召しのお身の上の御情に大慈の恵みお分かちくだされ、仏縁をもたせていただきとう存じます」と泪を落とす。「不憫なことではあるが、私たちはあっちこっちととどまるところが多い。人が大勢いく方向にまかせていくとよい。伊勢大神宮のご加護が必ずあり、無事につくことができるでしょう。」と言い捨てて出発してしまったのだが、哀れさがしばらく胸の中にやまなかった。≫

という散文(原文は江戸期の文語体ですが)につづいて、上の「一家・・・」の句が記されている。さらに句につづいて「曾良に語れば書きとどめ侍る」とくるわけです。ところが同行の弟子曾良に書き留めておいてくれよと伝えたのですが、曾良の残した『俳諧書留』の中に、このとき書き留めがない、そういう気配もないそうです。

それでこの市振の一件は芭蕉の創作ではないかと云われている。まあ。お伊勢さんまでつれて行ってくれ、なんてせがまれる場面はなかったかも知れない。けれども宿の部屋の壁の向こうから、艶めかしい女性の声が漏れ聞こえてくるようなことあったでしょうよ。まあ全くの創作と云ってしまうのはどうかとは思うのですが。
 
常林寺
作家で芭蕉研究家の嵐山光三郎もこれは芭蕉翁の創作だといいつつ、『奥の細道』は歌仙を巻くように一句一句懐におさめていく紀行であって、さらに「歌仙の芯は、月、花、恋、である。月を眺め胸がざわめき、花を見て心がはなやぎ、恋に身をこがしてさすらうことが風狂の旅である。歌仙を巻くのは座敷の席であり、実際に旅をするわけではなく、密室で幻視する月、花、恋である。それを『細道』に巧みにはめ込むところに芭蕉の技があった」(『芭蕉紀行』新潮文庫)。芭蕉の技かぁ!卓見ですねぇ。

どちらにせよ、この一句、そんな背景をなしにこの発句だけ取り出して読んでも、存在感のある名句で、さすが芭蕉大宗匠とうならせるものがあります。うんうん!

ところで、今年仲秋の満月は九月八日です。仲秋の迷月は「初恋を偲ぶ夜」です。
いやっ、わたしが言っているのではなく、井伏鱒二がいっているのですよ。

けふは仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
     『荻久保風土記』より          

     Sakon Kisse 記 (このブログは池上助産院のホームページ掲載したものと同じです。)

2014年7月28日月曜日

久しぶりのブログ 『凌霄花』のうぜんかずら


我が家へ入る路地で撮った凌霄花の写真です。
今年の2月に(それも半年ぶり)の投稿して以来、サボってばかりの『凡夫の戯言』であります。
書きかけてはボツにしたり、下書きのまま塩漬けになっていたりで、日の目を見ない原稿が、わが「Blogger」ダッシュボードにはうんと溜まってしまって・・・・
久しぶりの投稿も、京都四条大宮の池上助産院さんのウェブサイトに、ちょっとした行きがかりで、毎月私が書くことになった文章の、今月分からの転用です。
ご了承ください。

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さて、ここからが本文

のうぜんかずら

英語ではtrumpet creeper 。 creepというのは這い登るという動詞ですね。コーヒーに入れる粉ミルクのことではないんですね。這い登るラッパ?辞書をよく読むとcreeperというのは「つる植物」の総称らしいですね。(a plant that grows along the ground, up walls, etc.;often winding itself around other plants【OALDの解説】)ラッパ蔓。

やつぱりお留守でのうぜんかづら 山頭火

のうぜんかずらという植物は中国原産だということです。自分で確かめたわけじゃないのですが、日本国語大辞典の「のうしょう」の項目記事で、平安時代の本草書『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年)に「乃宇世宇(のうせう)」という名が出ているそうです。平安時代には日本にあった。じゃあ帰化植物かということになりますね。こんなに古くからある植物は、帰化植物とはいわないそうです。それでは、いったい何時ごろ日本にやってきた種類のものからそういうのか。これを決める時期的区分には定説はないらしい。江戸末期以降とする説や、安土桃山時代以降に考える説、明治以降という主張もある。ただそういった新しく入ってきた種に絞っても、日本の4分の1にあたる種類が帰化植物になるそうです。(『日本の帰化植物』平凡社)まあ、動物よりは容易に入ってくるのでは。渡り鳥・昆虫・最近は人間にもくっついて入ってくる。

中国原産ということで漢名は凌霄花。霄は「みぞれ」、「そら」といったところがだいたいの意味、また古くは「ソラ」「オオソラ」「ヨル」などと訓読みしたそうです。元の意味は霄雪。のちに暗く遥かといった意味合いにより、天空の意味に用いるようになったと(『字通』白川静)は解説しています。「天空を凌ぐ」なんてちょっとオーバーな表現のような気もしますが、ひょっとして、そんな大木になった凌霄花があるのかもしれません。『広辞苑』では10m位の高さになると解説しています。わたしはまだそんな大木の凌霄花にお目にかかったことがありません。木の寿命も長いそうで、秀吉の軍隊が朝鮮半島から持ち帰ったという凌霄花が金沢にあると聞きます。少なくとも400年程度は経っていることになりますね。

凌霄花を音読みすると「リョウショウ(セウ)カ」となるのですが、今回も語源辞典(東京堂出版)を頼りにしてみますと、りょうせうはr音がn音の交替によってまず「ノウセウ」なった。前述の平安期の記録にあるかたちですね。それがさらに変じて、「ノウゼン」と訛った。ということらしい。う~~ん。でも、日本国語大辞典でも大言海の解説を引用して「ノウゼンは古名ノセウまたはノウセウの転。ノウセウは「陵苕」の音転か」としている。あまり異説がないようなので、説き伏せられるより仕様がないですね。

ところで、この語源辞典にはまだ説明の続きがあります。それは「かずら」の説明。「菖蒲のかづら・・・**かづらは多く、・・かずらは頭の上にかぶせる蔓状のものをかみつら(上連)といったのが語源。」知らなかったなぁ。アデランスとつる植物はもともと同じ意味・語源である!ですね。

それはそうと、『養生訓』の貝原益軒先生は「花上の露、目に入れば  目暗くなる」と記し有毒植物のように言っているそうですが、これは嘘! 毒はありません。        Sakon Kisse 記

2014年2月18日火曜日

【今日の表現 「うべなう」 「いなむ」】

≪変わらないものは、ないの? 女に聞いてみる。 女は首をあいまいにふる。 うべなっているのだか、いなんでいるのだか、それともまた、どちらでもないのか。≫ 川上弘美  『真鶴』(文芸春秋)

相変わらずの戯言でブログを汚しております。長い間ブログしてないので、ちょっと調子を思い出すのに、こんなことを。
 
上の文章は川上弘美の『真鶴:』という小説の一部です。わたしが下線を付けたところですが、いまどき、「うべなう」「いなむ」なんてことばには、めったに出会うことがない。まあ作品自体もいい小説だと思ったのですが。ただわたしはこの言葉の響きがいいのでこのくだりは感心したのす。意味は「肯定も否定もしない」というぐらいの意味でしょうが。

「うべなう」と「いなむ」って辞書ではどんな風に書かれているかしらべたところ、『日本国語大辞典』(小学館)には
うべなう【諾・宜】(平安以降「むべなう」とも表記された 副詞「うべ」に活用語尾「なう」の付いた語)「うべ」と思う。同意する。願い、要求をなどを聞き入れる。≫とある。

では「うべ」ってどういう意味?ってことになりますね。
うべ【諾・宜】(平安以降には普通「むべ」と表記される。)あとに述べる事柄を当然だと肯定したり、満足して得心したりする意を表す。なるほど。まことに。もっともなことに。本当に。≫

そうか!思い出しました、「むべ」なんだ。時代劇なんかの台詞で「むべなるかな」って聞いたことがあるぞ。それに百人一首にもありましたねえ、古今集の有名な歌で≪吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀≫ってのが。

『大言海』(冨山房)の項には≪ウベ(得可)ノ義。肯(うけ)得ベキ理(ことわり)ノ意≫とあって、わたしは、川上弘美さんのこの文章には、これが一番近い説明になるように思います。

続いて、「いなむ」のほうも。これは「否」に活用する接尾語を付けたと想像できます。で、『日本国語大辞典』ではどうか。
いなむ【辞・否】(「いなぶ」の変化した語)承知しないということを表す。断る。嫌がる。辞退する。≫

そうか。「いなぶ」という言葉が先にあったのですね。例文に『蜻蛉日記』から≪あしともよしともあらんを、いなむまじき人は、このごろ京に物し給はず≫というのが引用されていました。『広辞苑』でもこのくだりが例文に紹介されている。

「ちかごろは良いこと悪いことにつけ、はっきり拒否するひとが京にはいなくなった」というほどの意味かなと思っていたら、わたしの間違いだったようです。堀辰雄の現代語訳(『かげろうふの日記』新潮文庫)よると「善いにせよ、悪いにせよ、こう云うような私をそっくりそのまま受け入れてくれるのは父ばかりだと思えたが、この頃は京にいらっしゃらない」ということらしい。

ちょっと肩すかし、恥をかくところでした。むべなるかな!