あけましておめでとうございます。
今月の花はまんさくです。春一番に咲く、「まず咲く」のでまんさくというそうです。嘘みたいな話でしょう。『大日本百科全書』(小学館)によりますと、江戸時代のお医者で植物の分類を研究していた飯沼慾斎はその著書『草木図説』(1856)のなかで、「まづ咲くの意ならん」と書いているらしい。わたしもいろいろ調べましたが、この説が一番有力ですね。
歳時記なんぞを眺めますと、まんさくには金縷梅という字があてがわれています。前述の『大日本百科全書』によりますと、この字は別のシナマンサクを指すもので、少し違うらしい。同じ小学館の『日本国語大辞典』ではこの漢字をあてるのは誤用であるとまで言い切って。だけど『広辞苑』(岩波書店)ではこの漢字を充てることを認めています。どうなっているのでしょう。歳時記などでは習慣的につかっているようなので、この際「誤用」となどといわずに認めてしまってもいいのでは。
まんさくの黄にこごる花は手にとれど衰へし目にただ対ふのみ(むかふ) 土田耕平
ところで、この写真は京都左京の浄土寺にある元真如堂の塀越しに見えるまんさくを、去年(2014年)の初めに撮ったものです。小さなお寺なのに元真如堂というのはどういうわけかと調べてみました。ここからは『京の古寺から11 真如堂』(淡交社)に頼って書きます。
平安京の頃、東三条女院こと藤原詮子という女人がおられまして、実はこの方第六十四代の円融天皇の女御で、六十六代一条天皇の実母。しかも当時大ブレイク中の藤原道長の姉。というわけで、かなりな権勢だったようです。どこかの航空会社の副社長のような!ところが、円融天皇の一粒種を生みながら関白藤原頼忠の娘遵子に正室の座をうばわれて、へそを曲げちゃって東三条離宮にこもって、御所には帰らないという事態になりました。
やがて、実子の一条天皇が即位することになって形成が一気にかわり皇太后となります、円融天皇の崩御に伴い詮子さんも出家。一条天皇は比叡山に勅願して常行三昧堂の本尊としてまつられていた慈覚大師作の阿弥陀如来像をこの離宮に迎えたのが真如堂の始まりだということ。勅願といっても、ひょっとして権力に逆らえず、いやいや渡したかもと思うのは、下司の勘ぐりでしょうか。この離宮は京都左京吉田山の東面にあたる神楽岡にあったということで、今の元真如堂のあたりになる。
京都市が下水道の整備のおりこのあたりを調査したようですが、かなり大規模な伽藍跡が見つかったそうです。現在は元真如堂はとてもこじんまりした静謐を感じさせるお堂です。建物は江戸時代のもの。曹洞宗の安寿さんが御守をなさっているようです。
歴史を感じながら、まんさくの花を眺めてみるのも、なかなかに思い入れ深くなりよろしいかと・・・
(このブログは京都四条大宮の
池上助産院さんのサイトに掲載されたものに手を加えて掲載しました。)