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2011年12月21日水曜日

冬至2011


白川のあおさぎ
明日は冬至。ぼくは朝・昼型人間なので、これからは日が長くなっていくのかと思うと、ホッとする。

遅かった紅葉も、夜明の街の灯がポツリポツリと消えていくように見えなくなって、山の玉水木の朱色が目立つようになってきた。

朝6時ごろジョギングに出る。夏至の頃なら日が登る頃、走るのには暑くなりすぎる時間だけれど、冬至の今頃は、東の山の稜線の上あたりが薄っすら白みはじめる時間。この時間から一時間くらいかけて夜が明けてくる。晴れた日なら、とてつもなく空の美しい時間帯だ。黒い空に紺色のグラデーションが乗ってきて、見る見るうちに銀鼠色に変っていく。黒い山の稜線や、森や自社の輪郭が切り絵のようにうかんでくる。朝焼けの見られる朝はもっとすばらしい。この銀鼠色にさらにピンクのグラデーションが乗って来る。

夜明少し前から、からすの鳴き声が聞こえる。しばらくすると鷺が水辺へ向かって朝食に出かけるのが見える。どんないい食堂があるのだか?

今日もまだ薄暗い水辺に一羽蒼鷺(あおさぎ)がいて、近づいても動かない。じーっとこちらの様子をうかがっている気配がある。けれどこちらが妙な動きをしないかぎりその場をはなれない。縄張りを守っているかように。

からすも人馴れして近づいても逃げないやつが多くなった。里に住む小鷺(こさぎ)や蒼鷺(あおさぎ)の中にも、ヒトが近づいても逃げないやつが多くなった。

それが、なんと、餌付けをされている鷺がいる。浄土寺の白川沿いにある、小さな喫茶店主のおばさんのところに餌をもらいにくる蒼鷺がいる。一日中その喫茶店の付近に居るようだ。おばさんの姿が見えると、どこからとも知れず飛んできて、その蒼鷺は声をかける。電柱の上から、もしくは白川の中州にある岩の上から。なにか童話の世界だ。

ぼくも一日中見張っているわけでだけれど、先日偶然にも、おばさんが近所のスーパーに買い物に出かけていくのを、電柱を渡りながらついて行くという場面に出くわした。おばさんもその蒼鷺が可愛いらしく、店の前の川べりに立っては様子を見ている。そのあおさぎもどこからか飛んでくる。よほど目がいいらしい。

そんな当時目前の今朝は鼠銀色の夜明け、東の空に26日の月が浮かんでいた。26日の月は何というのだろうか? ぴったりとした大和言葉はあるのだろうか? そんなことを思って、夜明の月を眺めていたら、月に向って流星が飛んだ!

そこで一句

<夜明け前 流星食ふたか 凍る月>

2011年5月6日金曜日

正親町=おおぎまち、あるいは おおぎちょう

『IT』という言葉とは全く無縁のライフスタイルを続けていたH氏が、この春、突然携帯電話とパソコンを購入! 最近頻繁にメールが来るようになった 。けっこう嵌(はま)ってしまっているのかもしれない。

そのH氏からのメール
「正親町天皇をなぜおおぎまちと読むのか検索してみましたが、正解は得られませんでした。」

そこでぼくの返信

「正親町についていろいろ調べてみましたが、もう少しで痒いところに手が届きそうで届かないというところです。

図書館にある【角川日本地名大辞典26】の「おおぎちょう=正親町」の項目では「江戸期~現在の町名。新町通一条下ルの町。町名は当地が左京正親司(おおきみのつかさ)のあった場所にあたることによる。」という説明がなされています。

今は確かに学校や幼稚園は「正親」を「せいしん」と呼んでいますが、この辞典の説明では、町名「正親町」=「おおぎちょう」という項目があり、現在も「正親町」を「おおぎちょう」と読んで使われているようです。住人・あるいはその近くの住人に尋ねてみればわかるとは思いますが。

ところで、正親司というのは、小学館【日本国語大辞典】の説明では「令制での官司のひとつ。宮内省に属して天皇の二世以下四世以上の親族の名籍と、その季録、時服のことをつかさどる。おおきんだちのつかさ」と。


これではちょっとわたしの頭脳にはスッと入って来にくい説明なので、インターネット上の【ウィキペディア】で調べてみましたら、
「日本古代の律令制において宮内省に属する機関の一つである。『おおきんだちのつかさ』とも。
職掌: 正親司は皇籍を管理し皇族への給与(季禄・時服)に関する事務を執り行う。令制以前にはこのような機関は無く、唐の律令制における宗正寺(そうせいじ)を模倣したと考えられる。皇族の名簿を管理するため、長官の正には奈良時代には王が任命されることが多く、平安時代以後は代々白川家(花山源氏)が任じられた。司であるにもかかわらず他の司のように統廃合されることがなく、逆に別当が正の上に置かれた。別当は貴族がつとめその機関を総裁する職で寮に置かれることが多く、司では他に内膳司にしか置かれていない。このことから、この機関は時代が下っても重要な存在であったことがうかがい知れる。」と。

ちょうど、その【日本国語大辞典】の次の項目に「おおきみつのくらい=正三位」という言葉が続いていて、古い時代(いつごろまでかはわからないですが)「正」を「おお」とか「おおき」とか読む習しがあったのではと推察しています。 

平安期から室町期ごろは今の中立売通を「正親町小路」といっていたようです。
やはり角川の前掲の辞典の「おおぎまちこうじ=正親町小路」項での説明の一部に「平安期に見
える通り名。平安京の北部を東西に走る。一条通の南に位置する。道幅4丈。正親町小路の名は「権記」長保3年1月8日の条に見えるのを文献上の早い例とするが、「帥記」永暦4年8月17日の条には『一条南小路』見え、正親町小路の名も平安期までは一定しなかったようである。」

室町期以後、官衙町設定されたり、商家が立ち並び、江戸期頃から中立売通に名前が変ったようです。

平凡社【日本歴史地名体系26・京都市の地名】のおおぎまち=正親町の項目の中にはこんなのもあります。
寛永14年(1637)洛中絵図  正親町
寛永18年以前    平安城町並図  わふき町
承応2年(1653) 新改洛陽並洛外図  扇丁
元禄4年(1691) 京大絵図   正親町

因みに、江戸時代に「正親町町子」という名の女性がいたそうです。柳沢吉保の側室とかいうことで文筆家だということです。

2011年5月1日日曜日

花だより から 薫風

 桜の季節が過ぎて、新緑が鮮やかで、自然はいつも通り、少しこのところ天候が怪しいですが。
わたしは主にバス、時々は電車で移動してゐますが、今年も京都市内は他府県ナンバーの車でいっぱい。(やはり国内の人は自家用車を使うんですね。それでも、例年より少ない感じです。)
バスが渋滞で遅れるので、わーっこれは乗客でいっぱいかなと思って待っていると、ずいぶん空いてゐる。ギュウギュウ詰めどころかゆっくり座れるのです。

そういえば桜の季節の少し前から、バスに乗っているアジアからの観光客が少なくなった。少なくなったどころか無いに近い。それまでは、バスの中で話している会話を小耳に聞いて、「あ、これは中国から来た人たちやな、韓国から来た人やな」というのがわかる乗客が必ず居た。

こんな状況を風評被害という便利な言葉で繕っているけれど、原発に関していえば、行政(保安院や委員会)や為政者の不手際 無作為(彼らは隠蔽している)に対する批判ああるいは抗議では・・・

わたしは団塊の世代で「戦争を知らない爺」で、平和な時期を人生を送ってきて本当にありがたいと思っていたのですが、国や役所や会社の「操縦を任されて」いる人たちの中心はほぼその世代で、その動きはを見ていると、ずいぶん情けない思いをしています。

それやったら、おまえ何かできるのかといわれたら、それはそれは口を噤むしかできないのですが。