『IT』という言葉とは全く無縁のライフスタイルを続けていたH氏が、この春、突然携帯電話とパソコンを購入! 最近頻繁にメールが来るようになった 。けっこう嵌(はま)ってしまっているのかもしれない。
そのH氏からのメール
「正親町天皇をなぜおおぎまちと読むのか検索してみましたが、正解は得られませんでした。」
そこでぼくの返信
「正親町についていろいろ調べてみましたが、もう少しで痒いところに手が届きそうで届かないというところです。
図書館にある【角川日本地名大辞典26】の「おおぎちょう=正親町」の項目では「江戸期~現在の町名。新町通一条下ルの町。町名は当地が左京正親司(おおきみのつかさ)のあった場所にあたることによる。」という説明がなされています。
今は確かに学校や幼稚園は「正親」を「せいしん」と呼んでいますが、この辞典の説明では、町名「正親町」=「おおぎちょう」という項目があり、現在も「正親町」を「おおぎちょう」と読んで使われているようです。住人・あるいはその近くの住人に尋ねてみればわかるとは思いますが。
ところで、正親司というのは、小学館【日本国語大辞典】の説明では「令制での官司のひとつ。宮内省に属して天皇の二世以下四世以上の親族の名籍と、その季録、時服のことをつかさどる。おおきんだちのつかさ」と。
これではちょっとわたしの頭脳にはスッと入って来にくい説明なので、インターネット上の【ウィキペディア】で調べてみましたら、
「日本古代の律令制において宮内省に属する機関の一つである。『おおきんだちのつかさ』とも。
職掌: 正親司は皇籍を管理し皇族への給与(季禄・時服)に関する事務を執り行う。令制以前にはこのような機関は無く、唐の律令制における宗正寺(そうせいじ)を模倣したと考えられる。皇族の名簿を管理するため、長官の正には奈良時代には王が任命されることが多く、平安時代以後は代々白川家(花山源氏)が任じられた。司であるにもかかわらず他の司のように統廃合されることがなく、逆に別当が正の上に置かれた。別当は貴族がつとめその機関を総裁する職で寮に置かれることが多く、司では他に内膳司にしか置かれていない。このことから、この機関は時代が下っても重要な存在であったことがうかがい知れる。」と。
ちょうど、その【日本国語大辞典】の次の項目に「おおきみつのくらい=正三位」という言葉が続いていて、古い時代(いつごろまでかはわからないですが)「正」を「おお」とか「おおき」とか読む習しがあったのではと推察しています。
平安期から室町期ごろは今の中立売通を「正親町小路」といっていたようです。
やはり角川の前掲の辞典の「おおぎまちこうじ=正親町小路」項での説明の一部に「平安期に見
える通り名。平安京の北部を東西に走る。一条通の南に位置する。道幅4丈。正親町小路の名は「権記」長保3年1月8日の条に見えるのを文献上の早い例とするが、「帥記」永暦4年8月17日の条には『一条南小路』見え、正親町小路の名も平安期までは一定しなかったようである。」
室町期以後、官衙町設定されたり、商家が立ち並び、江戸期頃から中立売通に名前が変ったようです。
平凡社【日本歴史地名体系26・京都市の地名】のおおぎまち=正親町の項目の中にはこんなのもあります。
寛永14年(1637)洛中絵図 正親町
寛永18年以前 平安城町並図 わふき町
承応2年(1653) 新改洛陽並洛外図 扇丁
元禄4年(1691) 京大絵図 正親町
因みに、江戸時代に「正親町町子」という名の女性がいたそうです。柳沢吉保の側室とかいうことで文筆家だということです。
0 件のコメント:
コメントを投稿