この週末、東近江市永源寺でコテージを借りて一夜を森の中で過すため、大阪に住む友人と湖東に出かけた。
一日目は雨、二日目は雪がちらつくという、あいにくの天候だったが、久しぶりに森の美味い空気がすえて気持ち良く過せた。
コースは、京都銀閣寺付近で大阪からの車に拾っ てもらい、大原途中越え、琵琶湖大橋で湖東にわたって、近江八幡、八日市、永源寺と辿る道だ。
近江八幡から永源寺、さらには鈴鹿山脈の石榑峠を越えて伊勢のいなべ(員弁)桑名へ出る国道421号線(武佐員弁線)を「八風街道」と呼んでいる。そしてこの街道沿いには、「八風窯」「八風の湯」など、「八風」の名を冠した施設がいくつかある。
古い記録では鎌倉期からこの街道名がみえるようで、江戸期までは伊勢と江州を結ぶ主要な幹線道路であったいうことだ。「八風越」ともいわれ、現在の石榑峠よりもう少し南にある「八風峠」を越える道であったようだ。当時は整備されていない鈴鹿峠を回るより、峻険にもかかわらず距離が短く、賊の出る割合も低いというので、もう少し南の「千種越」とともに、近江商人は伊勢へ出るのにこの道を利用した。
「八風」の名前の由来は、『平凡社歴史地名大系』によると、「八方から風が吹きあたることに由来する」と説明されているけれど、同辞典の同じ項目には、『吾妻鏡』で「八峰山」、江戸期の連歌師宗長の日記には「八峰たうげ」などと記されているということだ。この付近の鈴鹿の連山には1000m前後の山が連なっており、「鈴鹿八峰」ともいわれ、「八峰」が「八風」転じたと考えるほうが受け入れやすいと思うが、如何なものだろう。門外漢の戯言だけれど。
「八風街道」は近江商人の通商の道であったばかりでなく、織田信長がこの道で狙撃されそうになったように、武将たちの軍勢の移動、伊勢側から永源寺に茶摘みにくる娘たちの通り道でもあった。けれど、とても峻険な道でもあった。前述の連歌師宗長は日記に
「このたうげは、むかしより馬輿とをらぬ子細有ときけども、老のあし一あしもすゝまず、・・・老のこしかき二・三十人梅戸よりやとひよびて、左右の大石ふまへ、おち滝つ波またげ、たびたび心まどひし。空へもかきあぐるこゝちして、やうやうたうげの一屋に一宿」
とのこしている。
石榑峠をとおる今の国道は、八風峠をとおる旧「八風街道」の枝道であったようだが、この峠の方が標高で200m近く「八風たうげ」低く、黄和田集落に残る古文書(平凡社同歴史地名大系)などから判断すると、彦根藩が街道整備のための測量での判断から、石榑峠を通る道ほうを整備の主眼に置いたと推測される。いずれにせよ、東海道の街道整備が進み安全度が高くなったため、鈴鹿越の道の方が利用度が高くなったと思われる。(幕府が関所を設けて、人民の移動にチェックを入れるためでもありそうだけれど。)いまはかつての「八風越」は登山道、林道になっているということだ。
その標高の低い方の石榑峠をとおる国道でさえ「酷道」といわれるほどの難所だった。冬期は通行止め。冬期でなくても大雨が降ると落石があったりして通行できなくなる。そのうえ、人の住む集落のある地域がなくなると、急に道幅が狭くなっていた。
ところが去年、山脈を貫通するトンネルが開通した。今回は残念ながらトンネルのある県境までは足を伸ばせなかったので、トンネルを見分することはできなかったのだけれど。
永源寺の奥の「八風街道」沿いに、岩魚(いわな)を食べさせ、宿泊もできる山荘がある。30年くらい前この山荘ができて間もなくの頃、毎年のようにお世話になった。今回帰途につく前、この山荘の親戚筋にあたるワイナリーに寄ってみた。ワイナリーのレジに立っていた女性が、昔お世話にその山荘の娘さん(当時はまだ幼稚園前くらいだったろうか)であることが判明。少なからず感動をおぼえるととともに、過ぎた年月をしみじみ思うこととなった。
ご両親の様子をお訊ねしたら、トンネルができてお客さんが増え、毎日忙しくされているということだった。何よりである!
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