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2013年3月8日金曜日

【今日の雑学】 こけら落とし


東京の新歌舞伎場が新築され、まもなく「こけら落とし」興行がある。といって、ぼくが特に歌舞伎に熱い関心をもっているというわけではない。猿之助や勘三郎が役者盛りで亡くなったことには、本当に残念に思うけれど。

実をいうと、この歳になって「こけら落とし」の「こけら」とは何なのか知らないことに気づいたのです。みなさんご存知でしたか?ぼくも今まで「こけら」とは何なのかという疑問もを持ったこともなかった。

そこで辞書の助けを。

こけら落し
(新築、改築工事の最後に屋根や足組などの杮(こけら)を払い落としたところから)新築または改築された劇場で行なわれる初めての興行。
                         【日本国語大辞典】

こけらおとし:語源は「コケラ」(コケラブキの劇場)+落とし(落成式)です。・・・・

(こけらぶきとは)「コケラ(木片)+葺」です。コケラで葺いた屋根のことです。ちなみに、芝居小屋の屋根のコケラ葺の工事が済んで、コケラ(木のくず)を払い落とすのが、コケラオトシの本義です。                          【日本語源広辞典(ミネルヴァ書房)】

という解説なのだけれど、もう少し痒いところに手が届かない感じですね。そこでもう一足踏み込んで、

こけら
材木をけずる時にできる、木の細片。木を斧でけずった時の細片。けずりくず。木片。こっぱ。
                                    【日本国語大辞典】

日本語源大辞典(小学館)によると「こけら」にの語源には
①コケはコケヅリ(木削)の下略。ラは添えた辞(和訓栞・大言海)
②コギレ(木片)の転(語源を探る=田井信之)。
③コケは細小の義。ラは助詞(類聚名物考)
④コケラ(魚鱗)に似るところから(東雅・類聚名物考 他)
⑤コヘラ(木片)の義(言元梯)
⑥コケは苔、ラはハラフ(払)か。またコは木、ケラは削ラヌの意か。または、コは木、ケラは虫のケラに似ることからか(和句解)
⑦この葉が風に散る音のケラケラから(紫門和語類集)

ということですが、意味としては日本国語大辞典の説明が穏当なところでしょう。
まったく知らなかったなぁ。

ところで、この「こけら」にはちゃんと漢字がある。文頭の画像の上の字。辞書を引いているときには気がつかなかったが、「杮」(こけら)という字は「柿」(かき)とは別字なんですって。「柿=かき」の漢字のつくりは「なべぶた鍋蓋」に「巾」、「杮=こけら」のつくりのほうは、縦角が一本で貫かれていて市、鍋蓋ではではない。

ぼくは自分の粗雑さ注意散漫を恥じ入っています。このたびも、改めて生まれながらの我が悪い性癖に気づかされ、悔いることしきり。

だけどパソコンのフォントのサイズを上げても、どうも区別できない。見分けがつきません。

そこで、またまた辞書の力を借ります。

【新潮日本漢字辞典】の木部の四画「杮=こけら」の項目に「参考」として次のように記されている。
「杮[参考]「柿」(木部の5画)は別字。表外漢字字体表では両者を区別する意図が見られる。しかし、JISX0208の規格表の一九九七年版は、両者を同一字形とする見解を取っている」

なぁ~んだ。フォントを拡大しても区別がつかないわけだ。パソコンのほとんどのフォント(ほんの数種類を除いて)では同一文字としてあつかわれているか、「こけら」と打って変換しても、「?」で帰ってくる、つまり漢字の登録がないということですね。そんなのけしからんと思いません?ま、そこは落ち着いて気を取り直し、次の記事を読んでください。

 インターネット上の百科事典【ウィキペディア】の「こけら落とし」の項目から。

≪「杮(こけら)」という字は「柿(かき)」と同じに見えるが、「柿(かき)」は「木部五画(旁が「亠+巾」)」なのに対し、「杮(こけら)」は「木部四画(縦棒が繋がる)」である。しかし、過去の文献によれば、両者は明確には区別されておらず、例えば『康熙字典』では逆になっており、両方とも「柿(木部五画)」とするものや、両字は同じ字の別字体と説明するものもある。これを根拠にして、JIS規格では「柿(木部五画)」が両方の字を包摂するものとしている。これに対し、字典で区別されていないのは後の混同によるものであり、字義を考えれば「こけら」は「杮(木部四画)」で書くべきとする説もある。≫

ウム!なるほど。歴史的にも、用法がしっかり定まっているわけではないのですね。だけど、これはやはり何らかの取り決めをしなくては。

白川静博士の【字通】では、つくりの部分にあたる文字に関して、
縦一本棒の市(はい)は「帯から巾が垂れている形。その巾は蔽膝、礼装用のひざかけである」。
鍋蓋に巾の市(し)は「市の立つ標識の形。交易の行なわれる場所には高い標識を樹て、監督者が派遣された」
と記されている。

もともと意味の異なる文字から発生しているんですね。やはり使い分けをするべきではないでしょうか。

2013年2月17日日曜日

【今日の表現】


【今日の表現】 久々です!

 「『古人(いにしえびと)を思ふ』といふことがある。あれは何か、おつとりのんびりしてゐていい気持ちなものですね。あの行為、といふか、心の動き、といふか、それとも儀式のやうな関心といふか、あれはわたしの好きな遊びです。うん、遊びと呼ぶのがぴつたちかもしれませんね、あれは。・・(近代人近世人でもなく、中世人でも物足りなく)古代人がいい。」丸谷才一『歴史の書き方』(人魚はアカペラで歌ふ)より


 明け方六時半ごろ、京都は雪が降っていました。冬至から二か月近く過ぎて、この時間になると空はずいぶん明るい。特に今朝は雪雲がわずかに桃色に染まり、雪雲の上では朝焼けが拡がっているのが窺い知れます。山は鈍色(にびいろ)のシルエット。まことに水彩画の世界を目の当たりにしているようで、寒さを忘れて、しばし堪能させられました。

 日曜日とはいっても、この時間になれば車もとおる、人も歩く、電車も走る。郊外とはいえ山裾には家が犇めき、送電線が網の目のように空中にはりめぐらされているのが目に飛び込んでくる。けれど、山の姿、空のありようは何千年前と変わりはないでしょう。清少納言や紫式部の時代の人々、いや平安京が定まるずっと前の時代に、この盆地に生きていた人々も、このような二月の雪の夜明けを眺めていたに違いない。

 そんな事情で、ちょっと前に読んだ丸谷才一のエセーのこのひとくだりを思い出しました。

2012年5月18日金曜日

【今日の表現】


 「9・11のあの出来事があって以来、一神教の本質について考えることが多くなっていた。その宗教はグローバリズムの見えない背骨をつくっている。一神教という宗教がなければ、おそらく資本主義というシステムは、いまあるような形をとって発達はしなかっただろう。人類はもっと別の形の資本主義を発達させていたはずなのである。ところが、キリスト教という一神教と一体になった資本主義は、大成功をおさめて、いまや地球のすべての場所を、自分のシステムに都合のよいようにつくりかえようとしている。
 しかし、それにはげしく反抗する人々がいるのである。しかもそれは、同じ一神教であるイスラムを深く信仰している人たちだ。人類の全体が、好むと好まざるとにかかわらず、一神教のたどる宿命的な展開に巻きこまれてしまっている。」
                     中沢新一「アースダイバー」より



 ローマ帝国皇帝、「大帝」つきで呼ばれるコンスタンティヌスが、キリスト教を公認して、自らも洗礼を受け改宗したところから、ローマ帝国皇帝は、ローマ市民から統治を委託された皇帝ではなくなり、神から統治を委託された皇帝になった。そして、ヨーロッパの中世はここから始まったという人もいる。
 
 そして、西ローマ帝国が滅び、約150年後にマホメッドが、イスラムの布教を始める。

 簡単にいってしまえば、この時代から16世紀までは、地中海とその周辺を中心に、それ以降はもっとグローバルなスケールで、このふたつの「一神教」が対立を続けていることになる。この間キリスト教側も、イスラム教側も、内部争いがあったり、経済事情があったりして、波のうねりの大小、あるいは濃淡のようなものがあったにせよ、お互いに相手の信仰する「神」を認めないのだから、対立は消えないで今日まで来たのは当然のことなのだ。

 「まあまあ、そういわんと、仲良うしはったら・・・」というわけにはいかないのだろう。

『ローマ人の物語』の著者、塩野七生氏のことばを借りれば、「非宗教的な立場からすれば『どっちもどっち』と言うしかない」、理由やきっかけで衝突が繰り返されているようにしか思えないのだけれど。

2012年4月10日火曜日

【今日の表現】三椏(みつまた)の花



「どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
 三椏の花が咲き,小屋の水車が大きく廻ってゐた。」

             『村』 三好達治
 

 
今年は桜が遅く、寒い春のスタートだけれど、三椏(みつまた)の花もいつもより遅いのだろうか。去年の正確な記憶がない。去年も一昨年も撮っているはずの三椏の写真がどうもみつからない。ただ桜に先駆けて三椏が先に見頃になった。

知人から三椏の花が描写に出てくる三好達治の詩があるが、どの詩だったか思い出せないと、先日、あるちょっとした会話のやりとりの中に出てきた。

調べてみたら、初期詩集『測量船』のなかにある、『村』という題のしてあることが分かった。実は『村』という題の詩が、この詩集の中にふたつあって、詩集のなかほどで『村』『春』『村』というぐあいに続いている。ふたつの『村』はひとつのストーリーであり、野生の鹿がとらえられ、小屋にいれられ死ぬというストーリだ。そのなかほどに、『春』という短い、ほんの四行ほどの詩が配置されている、まるで音楽のインテルメッツォのように。

詩集というのは、音楽でいう組曲である。その中の一曲に間奏曲が入っているのである。その間奏曲がどんな風な役割をしているか、今のぼくにはわからないのだけれど、上にあげた、後の『村』の最後の二行で、教えてくれた知人がいうように、非常に印象に残る。

著作権の関係で(まだ三好達治の作品は著作権が切れていないはず)二行のみの引用にとめさせてもらうが、ウェブ上では全文のせているサイトもある。罰や罰金は、そのサイトの管理人に被ってもらうことにする。読んでみたいと思われる向きには下記のサイトか

図書館などをご利用になられるとよい。
ただ、先の『村』はたいてい掲載されているが、肝心の後の『村』が入っていないのがある。編者の意図とセンスを計りかねる。実はこの詩をさがすときに、こういう編集の詩集に出会い、少なからず混乱したのだ。

三椏は京都では疏水支流沿い(とくに鹿ケ谷)にあちこちで見られる。二月に湖東三山の百済寺にも多く植えられていた。お寺にたくさん植えられているのは、書きもの(写経も含めて)のための和紙の原料に必要なのだが、疏水沿いにあるのはなぜだろう。殖産のため計画的に植えられたと書いているブログを一つみつけた。

三菱自動車が発行している【FUSO】という社内誌の378号に「(三椏でつくった)その紙は、とくにシワになりにくく虫もつかないので、紙幣や証券、地図など、重要な書類に使われていた。明治15年(1882)ごろから紙」幣への利用が増え、栽培が盛んになった。」
と書かれている。あるいは関係あるかも知れないが、確かなことを知りうる資料にはまだ出会えていない。調べる根気が足りないかな?

三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子

2012年3月31日土曜日

【今日の酒】何故酒を飲むのか (副題:結局はわからない)


 この3月26日の朝日新聞。「米国の研究チームによると、交尾する気のないメスに無視されたオスは、アルコール入りの餌を好んで食べたという。交尾できたオスに比べて、満足した時に脳内で増す神経伝達物質の量が少なく、欲求不満を「酒」で埋め合わせていたらしい。」

 蝿もやけ酒を飲むのかな?ぼくの経験にでは、面白くない、憂鬱なとき、何らかの精神的なバランスを崩しているときに飲む酒はろくな結果をもたらさない。酔いざめ気分は面白くなく、二日酔に悩まされたりするし、まずだいいちに、こんなときに飲む酒はうまくないのだ。 

 酒は上機嫌のとき、うれしいとき、可笑しいときに飲むほうが良い結末を迎えられることが非常に多い。事実そういう科学的実験結果もあるようだ。同じ天声人語のコラムに、「一時の酔いが頭から追い払った「嫌な記憶」は、より重くなって心の底に刻まれる。(ネズミの実験)やけ酒はストレス解消どころか逆効果」であるということだ。基本的には、めでたい酒の方が、そうでない酒よりは、よほどこの神の恵み享受できそうだ。

とはいえ、どんな状態にあろうと毎日酒のボトルに手はのびる。精神の状態が良いにつけ悪いにつけ、何かと理由をつけて酒を飲む。若かったころのように、明るいうちから欲しいと思うことはなくなったが、それは寄る年並からくる体力の衰えのせいだろう。
睡眠導入の役割もしているわけだから、これは立派なアルコール依存症であるともいえるのだが。

「いまさらいうまでもないことですが、人間には‶ないものねだり〝という欲望があります。この欲望はたいへんつよいものです。とりわけ男にはこの欲望がつよい。・・・・『自分以外のものになりたい』
コレです。男がお酒を飲みたがるのも。」(『開口一番 お酒を呑みます』開高健)

そうかな、そんな風に思ってグラスを傾けることあまりないのですが。

「・・・・なぜこうも自分以外のものになりたいか。
 いわずと知れたことです。自分に満足できないからです。ハッキリしています。およそ生れてから死ぬまで人間は一日として自分に満足する瞬間がないのです。・・・‶ないものねだり〝こそは地球をブンブンまわしているのであります。地球最後の日、それは最後の男がないものねだりをしなくなった日であろうと思われるのであります。」

そうやね、自分に満足できた日ってのは一度もないな、そう云われてみると。

 「かくて、われらは今夜も地球のために飲む。・・・その香り、その味。甘き、辛き。撫でるがごとく、ブンなぐるがごとく、そしてその翌朝の悲惨さよ。そしてそして、その夕方のふたたびとりあげるグラスによどむ永劫回帰の真理よ!」

 と開口先生も、何とか理由をつけて酒を飲んでおられたようだ。なぜ酒を飲むのか、なんてのはぼくにとっては永遠、わかりまへん!!




2012年3月12日月曜日

【今日の表現】あるいは水について



「これが甲斐駒の花崗岩で、岩の表面はなめらかで、一部、苔がむしていた。(中略)杉の老木の横から滝が落ちてくる。(中略)白糸のように清水がしたたりおちている。
 山の霊気が強く、全身がぶるっと震えた。
 手を出して清水を口に含むとクッとくる冷たさがあり、「あゝ」と思わず溜め息が出た。これが、ぼくが命の源泉としている南アルプスの天然水なのである。
 いつも飲んでいるペットボトルと比較すると、わずかに苔の匂いがあった。水がぴちぴちと生きているのであった。しばらくすると、水の甘みがよびもどされ、舌の上を森の風が吹いていった。」

―――――嵐山光三郎『白州の水でモルトの夏開く-2000年7月』より


うまい水に出会うと、ほんとうに幸せな気分になれる。とくにぼくのような「酒飲み」には、うまい水には幾重にも恩恵を受けていることになる。酒そのものの源泉で、名水で出来た酒は細胞に沁みわたる。水割りの伴になった名水は体の中に温かい春の風が吹く。名水で炊いた飯はのどごしがあまい。名水で淹れた茶やコーヒーには体がシャンと反応する。名水の風呂はあたりが柔らかで、あたたまる。数え上げたらキリがない。

この列島はは気候と地形の恵みがあり、いたるところでうまい水に出会える。「**の水」と銘打ったペットボトル入りの名水がどこででも買える。ほんとうに贅沢にいい水を使うことができるのだ。

ところが最近、こういった名水の水源地に中国の投資家の手が伸び始めたという。投機の対象にならなければと、取り越し苦労をしている。そんな輩に売ってはいけない。

彼の国の水事情は詳しく知らないが、衛生の要素を含めた「質」、人口に対する「量」共に非常に悪い状態にあると聞く。そればかりか、世界的にも水は不足している。世界の13%の人々がきれいな水が手に入らないということだから、水をひとり占めするのはよくない。うまい水をできるだけ公平に飲んでもらうのがいい。
ただ、足りないからといって、投機の対象になるのはいけない。それこそ「独り占め」だ。今や食料が投機の対象になっており、そのうち水もということになるのだろうか、「水ビジネス」ということば、マスコミでも聞かれるくらいだから。

地球は水の惑星といわれるように、大量の水が地上・地下にあって、それが生命を発生させ、育んでいる。けれど、水の大部分は海水であり、淡水は2.5%、そのうちわれわれが使える真水は0.01%にすぎない。

海水を真水にかえる技術はどのあたりまですすんでいるのだろう。物質を加えて新しい物質を作るよりも、特定の物質を取り除いて新しい物質にするほうが、はるかにむずかしいであろうことは、素人頭で考えてもわかる。海水の一部を今の真水の量の倍にかえてしまったら、生態系はバランスを失ってしまうのだろうか?

もうすぐ(2012年3月14日に)京都水族館なるものがオープンする。この水族館は真水を海水にかえて大量に水を使うということだ。ずいぶんエネルギーも消費するだろうし、地球全体の水事情を考えれば、海水を真水にかえるよりは簡単だとしても、こんな反エコロジー的の施設はないのではと思う。ぼくは個人的にはこんなところに水族館など要らないと思っている。むしろ、あのスペースを公園のままにしておいてほしかった。ただでさえ、京都のあの地域は公園の少ないところである。

あの公園の東の入口に、春一番に咲く「熱海寒桜」があったのだが、どこかへ行ってしまったのが悔しくてならない。

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「水割りは、まず、グラスの縁まで氷を入れ、氷の壁ぞいにトロトロとウィスキーをそそぎ、マドラーで十三回転半させ、また氷を加え、最後にミネラルウォーターをそそいで三回転半かきまぜるのがいいらしい」

――――――嵐山光三郎 同上

2012年3月1日木曜日

【近江の地名】八風街道


 この週末、東近江市永源寺でコテージを借りて一夜を森の中で過すため、大阪に住む友人と湖東に出かけた。

 一日目は雨、二日目は雪がちらつくという、あいにくの天候だったが、久しぶりに森の美味い空気がすえて気持ち良く過せた。

 コースは、京都銀閣寺付近で大阪からの車に拾っ てもらい、大原途中越え、琵琶湖大橋で湖東にわたって、近江八幡、八日市、永源寺と辿る道だ。

 近江八幡から永源寺、さらには鈴鹿山脈の石榑峠を越えて伊勢のいなべ(員弁)桑名へ出る国道421号線(武佐員弁線)を「八風街道」と呼んでいる。そしてこの街道沿いには、「八風窯」「八風の湯」など、「八風」の名を冠した施設がいくつかある。

 古い記録では鎌倉期からこの街道名がみえるようで、江戸期までは伊勢と江州を結ぶ主要な幹線道路であったいうことだ。「八風越」ともいわれ、現在の石榑峠よりもう少し南にある「八風峠」を越える道であったようだ。当時は整備されていない鈴鹿峠を回るより、峻険にもかかわらず距離が短く、賊の出る割合も低いというので、もう少し南の「千種越」とともに、近江商人は伊勢へ出るのにこの道を利用した。

 「八風」の名前の由来は、『平凡社歴史地名大系』によると、「八方から風が吹きあたることに由来する」と説明されているけれど、同辞典の同じ項目には、『吾妻鏡』で「八峰山」、江戸期の連歌師宗長の日記には「八峰たうげ」などと記されているということだ。この付近の鈴鹿の連山には1000m前後の山が連なっており、「鈴鹿八峰」ともいわれ、「八峰」が「八風」転じたと考えるほうが受け入れやすいと思うが、如何なものだろう。門外漢の戯言だけれど。

 「八風街道」は近江商人の通商の道であったばかりでなく、織田信長がこの道で狙撃されそうになったように、武将たちの軍勢の移動、伊勢側から永源寺に茶摘みにくる娘たちの通り道でもあった。けれど、とても峻険な道でもあった。前述の連歌師宗長は日記に

「このたうげは、むかしより馬輿とをらぬ子細有ときけども、老のあし一あしもすゝまず、・・・老のこしかき二・三十人梅戸よりやとひよびて、左右の大石ふまへ、おち滝つ波またげ、たびたび心まどひし。空へもかきあぐるこゝちして、やうやうたうげの一屋に一宿」

とのこしている。

 石榑峠をとおる今の国道は、八風峠をとおる旧「八風街道」の枝道であったようだが、この峠の方が標高で200m近く「八風たうげ」低く、黄和田集落に残る古文書(平凡社同歴史地名大系)などから判断すると、彦根藩が街道整備のための測量での判断から、石榑峠を通る道ほうを整備の主眼に置いたと推測される。いずれにせよ、東海道の街道整備が進み安全度が高くなったため、鈴鹿越の道の方が利用度が高くなったと思われる。(幕府が関所を設けて、人民の移動にチェックを入れるためでもありそうだけれど。)いまはかつての「八風越」は登山道、林道になっているということだ。

 その標高の低い方の石榑峠をとおる国道でさえ「酷道」といわれるほどの難所だった。冬期は通行止め。冬期でなくても大雨が降ると落石があったりして通行できなくなる。そのうえ、人の住む集落のある地域がなくなると、急に道幅が狭くなっていた。

 ところが去年、山脈を貫通するトンネルが開通した。今回は残念ながらトンネルのある県境までは足を伸ばせなかったので、トンネルを見分することはできなかったのだけれど。

 永源寺の奥の「八風街道」沿いに、岩魚(いわな)を食べさせ、宿泊もできる山荘がある。30年くらい前この山荘ができて間もなくの頃、毎年のようにお世話になった。今回帰途につく前、この山荘の親戚筋にあたるワイナリーに寄ってみた。ワイナリーのレジに立っていた女性が、昔お世話にその山荘の娘さん(当時はまだ幼稚園前くらいだったろうか)であることが判明。少なからず感動をおぼえるととともに、過ぎた年月をしみじみ思うこととなった。

 ご両親の様子をお訊ねしたら、トンネルができてお客さんが増え、毎日忙しくされているということだった。何よりである!