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2012年5月18日金曜日

【今日の表現】


 「9・11のあの出来事があって以来、一神教の本質について考えることが多くなっていた。その宗教はグローバリズムの見えない背骨をつくっている。一神教という宗教がなければ、おそらく資本主義というシステムは、いまあるような形をとって発達はしなかっただろう。人類はもっと別の形の資本主義を発達させていたはずなのである。ところが、キリスト教という一神教と一体になった資本主義は、大成功をおさめて、いまや地球のすべての場所を、自分のシステムに都合のよいようにつくりかえようとしている。
 しかし、それにはげしく反抗する人々がいるのである。しかもそれは、同じ一神教であるイスラムを深く信仰している人たちだ。人類の全体が、好むと好まざるとにかかわらず、一神教のたどる宿命的な展開に巻きこまれてしまっている。」
                     中沢新一「アースダイバー」より



 ローマ帝国皇帝、「大帝」つきで呼ばれるコンスタンティヌスが、キリスト教を公認して、自らも洗礼を受け改宗したところから、ローマ帝国皇帝は、ローマ市民から統治を委託された皇帝ではなくなり、神から統治を委託された皇帝になった。そして、ヨーロッパの中世はここから始まったという人もいる。
 
 そして、西ローマ帝国が滅び、約150年後にマホメッドが、イスラムの布教を始める。

 簡単にいってしまえば、この時代から16世紀までは、地中海とその周辺を中心に、それ以降はもっとグローバルなスケールで、このふたつの「一神教」が対立を続けていることになる。この間キリスト教側も、イスラム教側も、内部争いがあったり、経済事情があったりして、波のうねりの大小、あるいは濃淡のようなものがあったにせよ、お互いに相手の信仰する「神」を認めないのだから、対立は消えないで今日まで来たのは当然のことなのだ。

 「まあまあ、そういわんと、仲良うしはったら・・・」というわけにはいかないのだろう。

『ローマ人の物語』の著者、塩野七生氏のことばを借りれば、「非宗教的な立場からすれば『どっちもどっち』と言うしかない」、理由やきっかけで衝突が繰り返されているようにしか思えないのだけれど。

2012年4月10日火曜日

【今日の表現】三椏(みつまた)の花



「どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。
 三椏の花が咲き,小屋の水車が大きく廻ってゐた。」

             『村』 三好達治
 

 
今年は桜が遅く、寒い春のスタートだけれど、三椏(みつまた)の花もいつもより遅いのだろうか。去年の正確な記憶がない。去年も一昨年も撮っているはずの三椏の写真がどうもみつからない。ただ桜に先駆けて三椏が先に見頃になった。

知人から三椏の花が描写に出てくる三好達治の詩があるが、どの詩だったか思い出せないと、先日、あるちょっとした会話のやりとりの中に出てきた。

調べてみたら、初期詩集『測量船』のなかにある、『村』という題のしてあることが分かった。実は『村』という題の詩が、この詩集の中にふたつあって、詩集のなかほどで『村』『春』『村』というぐあいに続いている。ふたつの『村』はひとつのストーリーであり、野生の鹿がとらえられ、小屋にいれられ死ぬというストーリだ。そのなかほどに、『春』という短い、ほんの四行ほどの詩が配置されている、まるで音楽のインテルメッツォのように。

詩集というのは、音楽でいう組曲である。その中の一曲に間奏曲が入っているのである。その間奏曲がどんな風な役割をしているか、今のぼくにはわからないのだけれど、上にあげた、後の『村』の最後の二行で、教えてくれた知人がいうように、非常に印象に残る。

著作権の関係で(まだ三好達治の作品は著作権が切れていないはず)二行のみの引用にとめさせてもらうが、ウェブ上では全文のせているサイトもある。罰や罰金は、そのサイトの管理人に被ってもらうことにする。読んでみたいと思われる向きには下記のサイトか

図書館などをご利用になられるとよい。
ただ、先の『村』はたいてい掲載されているが、肝心の後の『村』が入っていないのがある。編者の意図とセンスを計りかねる。実はこの詩をさがすときに、こういう編集の詩集に出会い、少なからず混乱したのだ。

三椏は京都では疏水支流沿い(とくに鹿ケ谷)にあちこちで見られる。二月に湖東三山の百済寺にも多く植えられていた。お寺にたくさん植えられているのは、書きもの(写経も含めて)のための和紙の原料に必要なのだが、疏水沿いにあるのはなぜだろう。殖産のため計画的に植えられたと書いているブログを一つみつけた。

三菱自動車が発行している【FUSO】という社内誌の378号に「(三椏でつくった)その紙は、とくにシワになりにくく虫もつかないので、紙幣や証券、地図など、重要な書類に使われていた。明治15年(1882)ごろから紙」幣への利用が増え、栽培が盛んになった。」
と書かれている。あるいは関係あるかも知れないが、確かなことを知りうる資料にはまだ出会えていない。調べる根気が足りないかな?

三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子

2012年3月31日土曜日

【今日の酒】何故酒を飲むのか (副題:結局はわからない)


 この3月26日の朝日新聞。「米国の研究チームによると、交尾する気のないメスに無視されたオスは、アルコール入りの餌を好んで食べたという。交尾できたオスに比べて、満足した時に脳内で増す神経伝達物質の量が少なく、欲求不満を「酒」で埋め合わせていたらしい。」

 蝿もやけ酒を飲むのかな?ぼくの経験にでは、面白くない、憂鬱なとき、何らかの精神的なバランスを崩しているときに飲む酒はろくな結果をもたらさない。酔いざめ気分は面白くなく、二日酔に悩まされたりするし、まずだいいちに、こんなときに飲む酒はうまくないのだ。 

 酒は上機嫌のとき、うれしいとき、可笑しいときに飲むほうが良い結末を迎えられることが非常に多い。事実そういう科学的実験結果もあるようだ。同じ天声人語のコラムに、「一時の酔いが頭から追い払った「嫌な記憶」は、より重くなって心の底に刻まれる。(ネズミの実験)やけ酒はストレス解消どころか逆効果」であるということだ。基本的には、めでたい酒の方が、そうでない酒よりは、よほどこの神の恵み享受できそうだ。

とはいえ、どんな状態にあろうと毎日酒のボトルに手はのびる。精神の状態が良いにつけ悪いにつけ、何かと理由をつけて酒を飲む。若かったころのように、明るいうちから欲しいと思うことはなくなったが、それは寄る年並からくる体力の衰えのせいだろう。
睡眠導入の役割もしているわけだから、これは立派なアルコール依存症であるともいえるのだが。

「いまさらいうまでもないことですが、人間には‶ないものねだり〝という欲望があります。この欲望はたいへんつよいものです。とりわけ男にはこの欲望がつよい。・・・・『自分以外のものになりたい』
コレです。男がお酒を飲みたがるのも。」(『開口一番 お酒を呑みます』開高健)

そうかな、そんな風に思ってグラスを傾けることあまりないのですが。

「・・・・なぜこうも自分以外のものになりたいか。
 いわずと知れたことです。自分に満足できないからです。ハッキリしています。およそ生れてから死ぬまで人間は一日として自分に満足する瞬間がないのです。・・・‶ないものねだり〝こそは地球をブンブンまわしているのであります。地球最後の日、それは最後の男がないものねだりをしなくなった日であろうと思われるのであります。」

そうやね、自分に満足できた日ってのは一度もないな、そう云われてみると。

 「かくて、われらは今夜も地球のために飲む。・・・その香り、その味。甘き、辛き。撫でるがごとく、ブンなぐるがごとく、そしてその翌朝の悲惨さよ。そしてそして、その夕方のふたたびとりあげるグラスによどむ永劫回帰の真理よ!」

 と開口先生も、何とか理由をつけて酒を飲んでおられたようだ。なぜ酒を飲むのか、なんてのはぼくにとっては永遠、わかりまへん!!




2012年3月12日月曜日

【今日の表現】あるいは水について



これが甲斐駒の花崗岩で、岩の表面はなめらかで、一部、苔がむしていた。(中略)杉の老木の横から滝が落ちてくる。(中略)白糸のように清水がしたたりおちている。
 山の霊気が強く、全身がぶるっと震えた。
 手を出して清水を口に含むとクッとくる冷たさがあり、「あゝ」と思わず溜め息が出た。これが、ぼくが命の源泉としている南アルプスの天然水なのである。
 いつも飲んでいるペットボトルと比較すると、わずかに苔の匂いがあった。水がぴちぴちと生きているのであった。しばらくすると、水の甘みがよびもどされ、舌の上を森の風が吹いていった。」

―――――嵐山光三郎『白州の水でモルトの夏開く-2000年7月』より


うまい水に出会うと、ほんとうに幸せな気分になれる。とくにぼくのような「酒飲み」には、うまい水には幾重にも恩恵を受けていることになる。酒そのものの源泉で、名水で出来た酒は細胞に沁みわたる。水割りの伴になった名水は体の中に温かい春の風が吹く。名水で炊いた飯はのどごしがあまい。名水で淹れた茶やコーヒーには体がシャンと反応する。名水の風呂はあたりが柔らかで、あたたまる。数え上げたらキリがない。

この列島はは気候と地形の恵みがあり、いたるところでうまい水に出会える。「**の水」と銘打ったペットボトル入りの名水がどこででも買える。ほんとうに贅沢にいい水を使うことができるのだ。

ところが最近、こういった名水の水源地に中国の投資家の手が伸び始めたという。投機の対象にならなければと、取り越し苦労をしている。そんな輩に売ってはいけない。

彼の国の水事情は詳しく知らないが、衛生の要素を含めた「質」、人口に対する「量」共に非常に悪い状態にあると聞く。そればかりか、世界的にも水は不足している。世界の13%の人々がきれいな水が手に入らないということだから、水をひとり占めするのはよくない。うまい水をできるだけ公平に飲んでもらうのがいい。
ただ、足りないからといって、投機の対象になるのはいけない。それこそ「独り占め」だ。今や食料が投機の対象になっており、そのうち水もということになるのだろうか、「水ビジネス」ということば、マスコミでも聞かれるくらいだから。

地球は水の惑星といわれるように、大量の水が地上・地下にあって、それが生命を発生させ、育んでいる。けれど、水の大部分は海水であり、淡水は2.5%、そのうちわれわれが使える真水は0.01%にすぎない。

海水を真水にかえる技術はどのあたりまですすんでいるのだろう。物質を加えて新しい物質を作るよりも、特定の物質を取り除いて新しい物質にするほうが、はるかにむずかしいであろうことは、素人頭で考えてもわかる。海水の一部を今の真水の量の倍にかえてしまったら、生態系はバランスを失ってしまうのだろうか?

もうすぐ(2012年3月14日に)京都水族館なるものがオープンする。この水族館は真水を海水にかえて大量に水を使うということだ。ずいぶんエネルギーも消費するだろうし、地球全体の水事情を考えれば、海水を真水にかえるよりは簡単だとしても、こんな反エコロジー的の施設はないのではと思う。ぼくは個人的にはこんなところに水族館など要らないと思っている。むしろ、あのスペースを公園のままにしておいてほしかった。ただでさえ、京都のあの地域は公園の少ないところである。

あの公園の東の入口に、春一番に咲く「熱海寒桜」があったのだが、どこかへ行ってしまったのが悔しくてならない。

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「水割りは、まず、グラスの縁まで氷を入れ、氷の壁ぞいにトロトロとウィスキーをそそぎ、マドラーで十三回転半させ、また氷を加え、最後にミネラルウォーターをそそいで三回転半かきまぜるのがいいらしい」

――――――嵐山光三郎 同上

2012年3月1日木曜日

【近江の地名】八風街道


 この週末、東近江市永源寺でコテージを借りて一夜を森の中で過すため、大阪に住む友人と湖東に出かけた。

 一日目は雨、二日目は雪がちらつくという、あいにくの天候だったが、久しぶりに森の美味い空気がすえて気持ち良く過せた。

 コースは、京都銀閣寺付近で大阪からの車に拾っ てもらい、大原途中越え、琵琶湖大橋で湖東にわたって、近江八幡、八日市、永源寺と辿る道だ。

 近江八幡から永源寺、さらには鈴鹿山脈の石榑峠を越えて伊勢のいなべ(員弁)桑名へ出る国道421号線(武佐員弁線)を「八風街道」と呼んでいる。そしてこの街道沿いには、「八風窯」「八風の湯」など、「八風」の名を冠した施設がいくつかある。

 古い記録では鎌倉期からこの街道名がみえるようで、江戸期までは伊勢と江州を結ぶ主要な幹線道路であったいうことだ。「八風越」ともいわれ、現在の石榑峠よりもう少し南にある「八風峠」を越える道であったようだ。当時は整備されていない鈴鹿峠を回るより、峻険にもかかわらず距離が短く、賊の出る割合も低いというので、もう少し南の「千種越」とともに、近江商人は伊勢へ出るのにこの道を利用した。

 「八風」の名前の由来は、『平凡社歴史地名大系』によると、「八方から風が吹きあたることに由来する」と説明されているけれど、同辞典の同じ項目には、『吾妻鏡』で「八峰山」、江戸期の連歌師宗長の日記には「八峰たうげ」などと記されているということだ。この付近の鈴鹿の連山には1000m前後の山が連なっており、「鈴鹿八峰」ともいわれ、「八峰」が「八風」転じたと考えるほうが受け入れやすいと思うが、如何なものだろう。門外漢の戯言だけれど。

 「八風街道」は近江商人の通商の道であったばかりでなく、織田信長がこの道で狙撃されそうになったように、武将たちの軍勢の移動、伊勢側から永源寺に茶摘みにくる娘たちの通り道でもあった。けれど、とても峻険な道でもあった。前述の連歌師宗長は日記に

「このたうげは、むかしより馬輿とをらぬ子細有ときけども、老のあし一あしもすゝまず、・・・老のこしかき二・三十人梅戸よりやとひよびて、左右の大石ふまへ、おち滝つ波またげ、たびたび心まどひし。空へもかきあぐるこゝちして、やうやうたうげの一屋に一宿」

とのこしている。

 石榑峠をとおる今の国道は、八風峠をとおる旧「八風街道」の枝道であったようだが、この峠の方が標高で200m近く「八風たうげ」低く、黄和田集落に残る古文書(平凡社同歴史地名大系)などから判断すると、彦根藩が街道整備のための測量での判断から、石榑峠を通る道ほうを整備の主眼に置いたと推測される。いずれにせよ、東海道の街道整備が進み安全度が高くなったため、鈴鹿越の道の方が利用度が高くなったと思われる。(幕府が関所を設けて、人民の移動にチェックを入れるためでもありそうだけれど。)いまはかつての「八風越」は登山道、林道になっているということだ。

 その標高の低い方の石榑峠をとおる国道でさえ「酷道」といわれるほどの難所だった。冬期は通行止め。冬期でなくても大雨が降ると落石があったりして通行できなくなる。そのうえ、人の住む集落のある地域がなくなると、急に道幅が狭くなっていた。

 ところが去年、山脈を貫通するトンネルが開通した。今回は残念ながらトンネルのある県境までは足を伸ばせなかったので、トンネルを見分することはできなかったのだけれど。

 永源寺の奥の「八風街道」沿いに、岩魚(いわな)を食べさせ、宿泊もできる山荘がある。30年くらい前この山荘ができて間もなくの頃、毎年のようにお世話になった。今回帰途につく前、この山荘の親戚筋にあたるワイナリーに寄ってみた。ワイナリーのレジに立っていた女性が、昔お世話にその山荘の娘さん(当時はまだ幼稚園前くらいだったろうか)であることが判明。少なからず感動をおぼえるととともに、過ぎた年月をしみじみ思うこととなった。

 ご両親の様子をお訊ねしたら、トンネルができてお客さんが増え、毎日忙しくされているということだった。何よりである!

2012年2月24日金曜日

【京の地名】 皀莢町

この町名、こう読むかご存知だろうか。「さいかちちょう」と読む。京都市上京区の西堀川通上長者町あたりの町名だ。この町の近くに住む人でなければ辞書を引かずに読める人はそう多くはないはずだ。

京都に限らず地名というものは独特の読み方があり、漢字で表記されると正確に読めないものがごまんとある。その中には発音に無理やり漢字をあてたもの、誤読がそのまま地名になったもの、合併で元の地名から一文字づつを取って組み合わせて意味不明になってしまったものなどとさまざまだが、この「さいかちちょう」という町名ははあて字でもなく誤読でもなく、「皀莢=さいかち」という樹木の名前が町名になったものである。

『角川日本地名大辞典』によると、江戸期から使われ出した町名であり、皀莢(さいかしとも読む)の大木があったことが地名の由来であると記されている。江戸時代の様々の記録から、「才かし町」、「ざいもく丁」、「さいり町」と呼ばれたりしていたこともあるようだ。儒学者藤原惺窩が一時居住していたと伝えられている。

それでは「皀莢」あるいは「さいかし」とはどんな植物だろうか?じつはぼくもこれがそうだと胸を張っていえないのである。まだ見たこともないのか、見ていても気がついていないかも知れない。


 そこで京都府立植物園にあるかどうか調べてみた。あるある。「あじさい園」の北側にあるというので、早速出かけて写真におさめたのがこれ。前に説明板があって、以前あった皀莢の大木が枯れたのだけれど、その枯れた大木の根元から二世が生えてきたと書いてある。生命力のある木らしい。

  写真でご覧になってわかるように、落葉樹なので、冬に眺めていてもなんの特徴も発見できない。あえていえば、若い木なので木肌がきれいなことと、幹に小さなトゲがあるのが見えることのみである。初夏には黄色い花を付けるらしいから、見に行かれるならそのころをお薦めする。

 亀岡の大井川沿いにも皀莢の大木があるということだ。大井川の土堤を護るためにつくられたということである。ここでは、もっと昔からど根性ぶりが認められていたということでだ。初夏には是非お目にかかりたいものである。

 『新牧野日本日本植物圖鑑』によると、マメ科の植物で、「落葉高木、枝や幹には分岐しているとげが多い。葉は互生していて短い葉柄があり、1~2回の偶数羽状複葉で葉軸には短毛がまばらに生える。小葉は多数つき、長楕円形または卵状楕円形、左右やや不対称であり、ふちはほとんど全緑、あるいは多少波状、またはきょ歯をもつ。雌花、雄花、および両性花を同一の株上に生じ、みな総状花序を作る。夏には淡黄色色の小花をつける。がくは4裂し、花弁は4、雄花には8本の雄しべがある。花が終ってから長さ30cm余りの平たい豆果を生じ、ゆがんで真直ぐではない。中に平たい種子が生じる。新葉は食用になり、豆果は石鹸がなかった時代に物を洗うのに用いた。」ただ、漢字で皀莢と書く植物は、中国では別の植物ということである。この和名は「古名の西海子(サイカイシ)の転流したもの」、「したがってサイカシ、またはサイカイジュともいう」という説明がなされている。


 この圖鑑の牧野富太郎博士は別の著書で、植物の和名はカタカナかひらがなにすべきであると主張しておられる。そうでないと、漢字が同じでも、中国と日本では別の植物というケースが非常に多いからだということである。そういえば動物名でも中国で鮎と書く魚は、日本の鯰だと聞いたことがある。だけどぼくのようのぼんくら頭の持ち主にはカタカナで書かれた植物名はとんと覚えられないのだけれど・・・困ったもんだ。

 この植物は薬用としても利用される。中医学では、皀莢は覚醒の薬と処方され、これがこの生薬の主たる効能ということである。これも中国での皀莢なのか日本で皀莢といわれているものなのかはっきりしない。

 ただ日本では皀莢の熟した莢(さや)を天日でよく乾かしたものを「和皀莢」(わそうきょう)といい、去痰、すなわち痰切りに効能がある。刺のみを乾燥させたものを皀角刺(そうかくし)といい、また種子に熱湯を通して天日で乾燥させたものを皀角子(そうかくし)といって、腫ものの治療に用いるということだ。

 では御免!

2012年2月13日月曜日

【今日のお酒】国産ワイン

 基本的には焼酎党なのだけれど、しばしばワインも美味しくいただく。なかでも近ごろ頻繁に求めるのが写真の国産ワインである。価格は一本¥525、コンビニや食品スーパーなどで簡単に手に入る銘柄である。裏ラベルにはミディアムボディーと印刷されているが、味は若く、超をつけていいほどのライトボディー。酸化防止剤が入っていないので、酔い心地、酔いざめ、ともに爽快感がある。とくに赤は、開栓後30・40分あたりの、ちょっと渋みの出てくるころが絶好調となる。


ぼくの20代ころの国産ワインは、酸味がつよくてこく・奥行きがなくて、たとえ値段が安くてもなかなか手が伸びなかったのだけれど、20年くらい前からだろうか、飲みやすく、味も良くなったように思う。


そんな「回想」をしていたところへ、わが開高健先生がエセー集の中に、国産ワインについて言及しておられるのに出会った。前回のブログ同様、1980年前後のものである。


 「冷静公平にいって全般的に水準が上昇している。十年前や十五年前にくらべると、お話にならないくらい上昇している。土質、品質、肥料、その他いろいろの点でひそやかな苦闘がおこなわれたものと推察したい。わが国では湿気と雨という二大敵があるので、ぶどう酒の品質もおのずから超克しようのない限界を負わされているわけだが、その枠のなかで精いっぱいの努力がされている。
・・・・・
 それにしてもロマネ・コンティ一本に二十万円という値段をつける近頃の風潮はひどいものである。ロマネ・コンティはまさしく≪ヴレ・ド・ブレ≫の逸品であるけれど、こういう待遇をしてはいけない。これは尊敬しているように見えながらじつは酒を侮辱し、いやしめるものである。むしろ背後に無知を感じたくなる。買うやつがいるからこんなことをするのだろうが、どちらもどちら、眼にあまる。あいた口がふさがらないので、その口で国産ぶどう酒を飲むことにする。」

      『開口一番 近頃の日本のぶどう酒は・・・』


 少しおことわりしておくと、わが愛飲の「R&B」の葡萄はチリ産である。20年くらい前、滋賀の葡萄の栽培地域で、ワイナリーを開いた人に聞いた話だが、この地の葡萄で酒にするのはとてもむずかしくらしく、当初はフランスから果実を輸入していたそうである。現在どんなことになっているのか知らないけれど、開高先生のおっしゃるように、純国産ワインを醸すのには、いくつものハードルをクリアしなければならないということになりそうである。

2012年2月9日木曜日

【今日のお酒】 日本酒


 ぼくは、いわゆる‶酒飲み〝。30年以上毎日飲まなかった記憶がない。立派なアルコール依存症であるという人もいる。ぼくの爺さんがは朝昼夜と食事どきに飲み、それでも早朝から商売にせいをだして働き、83歳で亡くなった。亡くなる直前まで、この生活習慣を‶守った〝。

 とても爺さんの真似はできないが、毎日黄昏どきになると飲みたくなって、仕事の締めくくりももどかしく、集中力も落ちてくるのがわかる。これもDNAか? が、お酒のおかげで‶早寝早起き〝という生活習慣を永年続けることができている。飲みすぎて、酒が体の中にのこっていることも、しばしばありますが・・・これはハズカシ!

 そこで、今日は日本酒。右の写真のパックは何と2ℓ¥990。アルコール度数が少しひくいので、酒税が安いのかな? 初めて彼(彼女)に会ったときは、料理酒を探していた。スーパーマーケットで売っているいわゆる料理酒は安いけれど、塩や甘味料・・いっぱい!こんなの使いたくない!、で発見したのが清酒正宗。極上だとはいえなけれど、軽妙で、クールです。

 酒は燗で飲めという爺さんのおことばでしたが・・・
 
 日本酒は飲むと、次の日が体が重い、やはり爺さんの遺言どおり、燗で飲むべきか。

 そこで開高健の日本酒エッセーです。これは1980年代に書かれたエッセーです。確かに古いですが、


 「ラムをあたためたのを‶グロッグ〝、ウィスキーをあたためたのを‶ホット・トディー〝、ぶどう酒をあたためたのを‶ヴァン・キュイ〝(または‶ヴァン・ショウ)という。いずれも冬の夜のたのしみであるが、今日は税務署へいったあとだから風邪をひきそうだとか、三日つづけて女房の顔を見たので何だかゾクゾクするとか、そういったときの飲みものである。いつもそうして飲む酒ではない。
 あたためてのむとその本質のうまさが登場し、しじゅうそうして飲まれる酒といえば、日本酒か紹興酒ぐらいしか思いだせない。・・・日本酒世界でも珍しい酒であり、稀なものなのであると思えてくるのである。ところが昨今(または最近三十数年の)、この貴重な日本酒の味が、手におえない堕落ぶりである。
 ・・・たまたま田舎を歩いていて、サラサラとした辛口の地酒に出会うと、・・・拍手をしたくなる。お酒呑みなら大げさないかただとはけっしてお思いになるまいと思う。そして・・・刺を通じて酒倉を見せてもらいにでかけたりすることがある。この甘ったるい時代の酒流にのらないでひっそりと、しかし堂々と背を向けていらっしゃるらしいその酒造家の顔をみたくなり会ってみたくなるのである。

 ・・・いったいこういうクド口がはびこるようになったのは米が不足した戦時中に‶サンバイジョウゾウ〝(けたクソわるいのでカタカナで書かせて頂くが――)という苦肉を編みだして以来のことで、永い永いこの国の酒史のなかではお話にならない浅薄さに酒造家がアグラをかいているからなのである。そういうクド口を黙って飲んでいる酒徒にも責任があるが、A級戦犯はもっぱら酒造家にある。
 香水、料理、お菓子、歯みがき、石鹸、これら官能品で甘いものは幼稚な段階にあるものといいたい。いまの日本酒は酒品をいえば幼稚園の味である。どんな本を読んでいるか言ってごらん、そしたらあなたがわかる。これは酒にも通ずることである。大きな声をだして飲んでいますと答えられるサケをつくっていただきたいものである。


      『開口一番 いいサケ、大きな声』

あと何日かシリーズ続きます。 よろしく!

2012年2月7日火曜日

【今日の駄作】


今朝は暖かな雨、数匹の猫が大暴れ。
猫の恋、もつれたか

    針色の雨落ちて京の春立ぬ

    明け方の猫大争乱で春立ぬ


         自駄作

2012年1月30日月曜日

ビートルズ ぼくのハード・デイズ・ナイト


 今朝も雪がちらつく。午前5時過ぎから、週三回のジョギング開始。こういう冷たい朝は、冷たさにまともに向いあうより、冷たさから思考をそらして、ほかのことを考えてみるのも、ちょっとした工夫である。

 今朝は先日読んだ、池澤夏樹がビートルズについて書いていたエッセーのことが頭に浮かんだ。そのことを頭の中で反芻している内に、冷たさに対する意識は遠のいていく。


 「彼等(ビートルズ)はおそろしく誠実だった。一つのジェネレーションが彼等によって誠実な生きかたというものを習得した。人が毎日暮らしていて遭遇するいろいろな状況に対して取るべき態度を彼等は教えてくれた。歌だけでなく、たとえばエリザベス女王についてどう思うかと問われて、”Oh, she's O.K."などとあっさり答える彼等の姿勢そのものがまさに誠実なメッセージだった。この点を理解できない人間には結局彼らの魅力はわからなかったと言ってよいだろう。」

 「キャロル・キングが歌いかける相手はやはりアメリカのインテリ女性だろうし、ボブ・ディランの歌も多少ともヒップな連中にしか通用しない。ミック・ジャガーには解放感はあっても現実感がない。ビートルズがあれほど成功したのは彼等の星辰活動の領域が広く、彼等の歌の世界に入口が沢山あったからだろう。」

                   池澤夏樹『ア・ハード・デイズ・ナイト』

 
 ぼくは、ビートルズの登場に衝撃を受けた記憶がない。今もビートルズは嫌いではないし、好きな曲もたくさんある。それでも、どちらかというと、ミックジャガー=ローリングストーンズやボブ・ディランのほうが好きだ。

 冷たい空気の中で、意識は堂々巡り。体が少し温まってくる。
 
 結局ぼくは「この点を理解できない人間」であり、「結局彼らの魅力はわからなかった」のだろう。残念ながら。
 
 それは、不誠実な生き方しかしていないということなのだろうと、居直ってみたりする。

 ここまで、思いが至ったところで、東の空が白み、ブルーが拡がりはじめた。朝はこの時間がいちばん冷たい。

2012年1月28日土曜日

【きのうの雑学】



 専門の研究者が解明したことも、素人のぼくたちが知識として得ても、研究者には失礼ながら、雑学ということになる。

 昨日(2012年1月27日)の朝日新聞29面に掲載されていた記事。大阪市立大チームが、ハエトリグモ(どんな蜘蛛か知らない)は標的の蝿との距離をピンボケ度合で計っているという研究結果を発表した。これは最新のデジカメにも使われている「技術」だということだ。狙った蝿がどのくらいぼけて見えるかで距離を知り、ジャンプして蝿をとらえるということらしい。距離が遠い程小さくくっきり、近いほど大きくぼやけて映る。

 これって老眼と同じだね。そういえば最近老眼が進み、ちょっとピントが合いにくくなってきた。眼鏡を変えるかな。

 ピンボケの頭でピンボケ行動の毎日の人生。そういうぼくには、朗報である。ピンボケをうまく利用する方法がきっとあるような気にさせてくれる。

2012年1月26日木曜日

【今日の表現】


寒い中、ちょっと暖かく(少し背筋が寒くなる)別世界を。


開高健『君よ知るや、南の国--眼ある花々』

「うるんだ亜熱帯の黄昏空を巨大な夕陽がソテツやヤシの林のかなたに沈んでいき、空には真紅、紫、金、紺青、ありとあらゆる光彩が、いちめんに火と血を流したようななかで輝き、巨大な青銅盤を一撃したあとのこだまのようなものがあたりにたゆたっている。謙虚な、大きい、つぶやくような優しさが土や木にただよう。」

「私はパリを経由して(ベトナムへ)きたので釣竿を持っていた。バナナ島は最前線中の最前線で、すぐ眼のまえの対岸が反政府地区であった。生きるか死ぬかの闘争をしている場所へ釣竿など持っていくのはいかにも不謹慎な気がしたが、いってみると、たいそう歓迎された。(中略)第一回にこの国にきたとき坊さんに日ノ丸の旗にヴェトナム語で『私ハ日本人ノ新聞記者デス。ドウゾ助ケテ頂戴』と書いてもらったのを持って歩いたものだが、それを見たときのヴェトナム人の顔とバナナ島の人びとの顔をくらべてみると、日ノ丸よりも釣竿のほうがはるかにあたたかく、まったく無条件でうけ入れられたといいたい。

「爆弾や砲弾はどこへとびこむかわからないので機関銃弾よりおそろしかった。衝撃にたまりかねて小屋のそとへとびだしてみるが、どこへかくれていいかわからず、どこへかくれても効果はおなじであるような気がするので、闇のなかで思わずたちすくんでしまう。すると、水ぎわの木に何千匹とも何万匹とも数知れぬホタルがむらがっている。ここのホタルは一匹一匹が明滅するのではなく、何万匹もの大軍団がいっせいに輝きはじめ、それがしばらくつづいてから、ふと、ある瞬間、いっせいに消えてしまうのである。(中略)蒼白く輝き、それは何万もの大群集の歓声でであるはずだが何の物音もしない。光輝がふっときえると、その穴へ闇がなだれこむ。

 それは太古の夜の花である

すばらしい表現力です。

2012年1月24日火曜日

冷たい朝、美しい朝

冷たい朝、吉田山から西を望みて

<大寒の雪雲かむる愛宕山
      朝焼け燦と

         青さぎの声>  自作のお粗末


【今日の雑学】


現在日本最古とされる漆は8千以上前のもので、中国より千年古い。(宮代栄一 『朝日新聞』文化面)

2012年1月22日日曜日

寒の雨

寒の雨。暖かい。

<寒の雨 Facebookは 賑わへり

繋がりたくもあり面倒でもあり> 自作


【今日の雑学】

「冷たい」語源は「爪痛い」。昔(いつの頃か不明)は指先全体を「爪」と云った。
           
           物知りの元は『天声人語』

2012年1月21日土曜日

【今日の表現】





「夕刻は猫の帰りを待ち、朝昼には干潮を待つ。待つことに慣れてしまうと、闇夜が何日続こうが苦痛ではなくなる。月は出るのだ、いつか。来ない男やまだ出会えない男を待つよりも確実に・・・」

「しかし、歌う者がいる限り歌は決して老いることはないのだ。」

       『海松』稲葉真弓



「ひらがなはやさしい。易しいだけでなく、優しい。」

      『天声人語』朝日新聞

2012年1月5日木曜日

私の上に降る雪は・・・

<私の上に降る雪は 真綿のやうでありました>

 また雪が降った。今朝起きると、屋根に2㎝ばかりつもっている。この冬二度目の積雪。昨日の午後急に冷たい強風が吹き出したと思ったら、白いものがちらつきだした。夜、帰りの中のバスの中から、暗くなった窓外を眺めていると、北へ上るにつれて、雪の降る模様が濃密になる。自宅のある岩倉バスを降りたときはすでに雪は積もりかけていた。

 京都の町は北に上がるほどどんどん気温が下がり、市内中心部と岩倉とでは、3度くらいの差があるといわれるけれど、ぼくにはもっと温度差があるように思える。夏は窓を開けていれば、何とかエアコンなしで過せるが、冬は「じんじん」という音が聞えるくらい冷える。

 それでも京都の雪はみやびやか。華麗に優しく降る。20代のころ彦根に3年余り住んでいた。ぼくの雪体験としては、その期間がいちばん厳しかった。井上陽水の「氷の世界」というアルバムがリリースされたころ。この歌が雪を引っぱってきたのかと思うくらい、毎日雪が降りしきった。雪が小休止しても、雪が凍って町全体が冷凍庫になる。自転車はいうにおよばず、歩いていても滑る。

 めげそうになっているぼくに、会社の上司は今年は「雪が多いんや」と気慰めをいってくれたが、次の年も、その次の年も同じだった。あの人、今どうしてるかな? こんなに寒い所にどういうわけがあって人が住むようになったのかと思ったものだ。

 昨夜は、「真綿のやうに」降る雪を眺めながら思い出したことがある。中学校の一年生のときの担任の先生が、島根の出身だった。その先生は、「山陰では屋根に降る音が家の中に聞こえる」といっていた。

<私の上に降る雪は いとしめやかになりました……>